第3話 届け出
王宮魔法省の受付窓口は、朝の詠唱の間と同じくらい人が少ない。
石造りの廊下を進み、記録管理室の扉を叩いた。出てきたのは白髪交じりの老官吏で、私の顔を見ると眼鏡の奥の目を丸くした。
「クラーレンバッハ嬢。こんな時間にお珍しい」
「届け出をお願いいたします」
差し出した書面を受け取り、老官吏は目を通した。途中で一度、眼鏡を外した。
「——声紋術師の任務辞退届、ですか」
「はい」
「理由は」
「一身上の都合です」
老官吏はしばらく黙っていた。受付窓口の奥で羽根ペンが乾いていく音だけが聞こえる。
「規定では、辞退届の受理には後任者の確認、もしくは受け入れ先の不在証明が必要です。後任は——」
「シュテルンハイム公爵家より、後任の声紋術師を推薦する旨の連絡があるはずです。確認が取れ次第、受理の手続きをお進めください」
老官吏は眼鏡をかけ直し、もう一度書面に目を落とした。
「クラーレンバッハ嬢。あなたが辞められると、この王国の声紋術師は——」
「はい。存じております」
老官吏の視線が書面から離れ、私の顔をまっすぐに見た。何か言いかけて、やめた。
「……承りました。書面はお預かりします」
「ありがとうございます。なお、引き継ぎ文書は別途、本日中に魔法省記録室へ提出いたします」
頭を下げて、記録管理室を出た。背後で扉が閉まる音。廊下に自分の靴音だけが響く。
手が震えるかと思ったが、震えなかった。
◇
引き継ぎ文書の作成には、半日を費やした。
自室の机に封印の楽譜、過去三年分の詠唱記録、結界維持の手順書、条約封印の更新履歴を広げる。エルザが隣で紙を押さえ、インクを足してくれた。
書くべきことは膨大だった。
結界維持の詠唱手順。音の高さ、長さ、順序、間の取り方。声紋石への記録方法。記録の読み方。封印の楽譜の保管場所と、各ページに記された詠唱の用途。条約封印の更新周期と、更新を怠った場合に起こる事態。交易路の魔獣封じに必要な詠唱の種類と、季節ごとの調整。
すべてを、声紋魔法の専門記法で記した。
この記法は、声紋魔法の素養を持つ者にしか読めない。旋律の微細な変化を文字に落とす独自の体系で、師匠から私へ、口伝と実技で引き継がれたものだ。素養のない者が見れば、意味のない線と点の羅列にしか見えない。
私は引き継ぎ文書の冒頭に一文を加えた。
『本文書は、後任の声紋術師が声紋魔法の素養を持つことを前提に記述する』
嘘は書いていない。悪意も込めていない。ただ、事実を記しただけだ。後任が本当に声紋魔法を使えるのなら、この文書は十全に機能する。使えないのなら——それは引き継ぎの問題ではなく、後任の選定の問題だ。
最後のページを書き終え、ペンを置いた。指先にインクの染みが三つ残っている。
「エルザ」
「はい」
「これの控えを取ってちょうだい。一部は魔法省へ。もう一部は——」
「お嬢様のお手元に」
「ええ」
エルザは頷き、引き継ぎ文書を丁寧に揃えた。厚い束だった。十年分の業務が、紙の重さになっている。
◇
父の屋敷を訪ねたのは、引き継ぎ文書を魔法省に届けた足でだった。
書斎に通された。父は窓際に立ち、私が話し終えるまで一言も口を挟まなかった。
任務の辞退。婚約の辞退。辺境公爵への招聘の受諾。すべてを順に伝えた。声が掠れないよう、喉に力を入れた。
父が振り向いた。クラーレンバッハ子爵マティアス。かつて王宮魔法省の顧問を務めた人。私に声紋魔法の才があると最初に気づいた人でもある。
「——夜会のことは、聞いている」
「お父様」
「口うるさいだけの女、だそうだな」
父の声は穏やかだった。穏やかすぎるほどに。窓の外を見つめる横顔の、顎の筋だけが固い。
「お前は、怒っているか」
「いいえ。もう、怒ってはおりません」
嘘ではなかった。怒りは昨夜の馬車の中に置いてきた。今あるのは、もっと静かなものだ。
「辺境公爵の招聘状の文面は見せてもらった。実務的で、誠実な人物と見える」
「はい」
「法的な手続きは私が確認する。婚約辞退の書面に不備がないよう、こちらでも目を通そう。——リーゼ」
父は私の名を呼び、一度だけ沈黙した。
「お前の判断を信じる」
それだけだった。それだけで十分だった。
書斎を出るとき、父が背中に一言だけ足した。
「お前の声は、母親に似ている。いい声だ」
振り返らなかった。振り返ったら、喉が詰まる。靴音だけを立てて、廊下を歩いた。
◇
公爵邸に戻り、ディートリヒ様に婚約辞退を申し入れたのは、夕食の前だった。
書斎で彼は書類に目を通して——いや、目を通すふりをしていた。ペンが動いていない。
「婚約の辞退を申し入れます。書面をご用意いたしました」
差し出した書面を、ディートリヒ様は受け取った。最初の数行だけ目を滑らせ、残りのページをめくりもしなかった。
「ああ、そう。勝手にしたらいい」
声に怒りはなかった。苛立ちもなかった。ただ、面倒そうに。
「署名をお願いできますか」
「ここか?」
最終頁の署名欄を指し示すと、彼はペンを取り、流れるような筆跡で名を入れた。インクが乾くのも待たず、書面を返す。
「それと、声紋術師の後任の件ですが——」
「ああ、ナターシャがやると言っている。彼女も声紋魔法が使えるそうだ。安心しろ」
「……左様でございますか」
「何だ、不満か?」
「いいえ。後任がいらっしゃるのなら、安心いたしました」
ディートリヒ様は私の顔を見た。一瞬だけ、何か引っかかったような目をした。けれどそれも、すぐに消えた。
「まあ、君は真面目だったよ。それは認める。ただ、少し——うるさかったな」
最後まで、それだった。
「長い間、お世話になりました」
頭を下げた。彼はもう書類に目を戻していた。動かないペンの先が、紙の上で止まっている。
書斎の扉を閉めた。手の中に、署名入りの書面がある。インクはもう乾いていた。
◇
自室に戻り、声紋石を引き出しから取り出した。
今朝の記録がまだ微かに光を帯びている。明日の朝、最後の詠唱を行う。王宮結界の維持として、私が捧げる最後の声。その記録も、この石に刻む。
布で丁寧に包み直す。
「エルザ」
「はい、お嬢様」
「これは持って行きます」
エルザは声紋石を見つめ、小さく頷いた。
「荷造りは、いつまでに」
「三日後に発ちます」
「承知いたしました」
迷いのない返事だった。この人は問わない。どこへ行くのかも、なぜ行くのかも。ただ付いてくる。十年前からそうだった。
机の上に、引き継ぎ文書の控え、辞退届の写し、署名入りの婚約辞退書面が並んでいる。すべて、手続きは正しく踏んだ。法に沿い、制度に沿い、一点の不備もなく。
声紋石を懐にしまった。水晶の重さが、胸の内側にそっと触れる。
窓の外はもう暗い。明日の朝、最後の詠唱を終えたら、この部屋ともこの屋敷とも別れる。
引き継ぎ文書の末尾に記した一文が、頭の中で繰り返される。
——後任が声紋魔法の素養を持つことを前提とする。
後任が本当に使えるかどうかは、私の知るところではない。




