第2話 口うるさいだけの女
夜会の支度は、いつも声紋石をしまうところから始まる。
化粧台の引き出しに布ごと収め、鍵をかける。エルザが後ろから髪を梳いてくれる手つきが、今夜はいつもより丁寧だった。
「お嬢様。今夜は、あちらもいらっしゃるのですか」
「ええ」
鏡の中で、エルザの唇がわずかに引き結ばれた。あちら、と名前を避けるのは、この人なりの抗議だろう。
髪を上げ、薄い銀の耳飾りをつける。ドレスは淡い灰紫。派手すぎず、地味すぎず、公爵家の婚約者として申し分のない装い——のはずだ。ディートリヒ様に褒められたことは一度もないけれど。
馬車に揺られながら、喉を確認する癖が抜けない。今朝の詠唱で少し掠れた声は、夕方までに戻った。夜会で歌うわけではないのに、と自分でおかしくなる。
◇
王宮の大広間に灯る魔灯は、夏でも冷たい白を帯びている。
入り口でディートリヒ様と合流した。黒の礼装がよく似合う。この方は、社交の場では完璧に笑う。私に向ける顔とは別の顔で。
「リーゼ、今夜は余計なことを言わないでくれよ」
「ええ、心得ております」
それだけ。腕を取るでもなく、彼は先に歩き出した。私はその半歩後ろを、婚約者にふさわしい距離で付いていく。
広間にはすでに多くの貴族が集まっていた。宰相家の令嬢、侯爵家の夫人方、軍部の高官たち。私がすべきことは、彼らに失礼のない挨拶をし、ディートリヒ様の隣で微笑み、聞かれたことに過不足なく答えること。
長年やってきた。もう手が覚えている。
ナターシャ様は広間の中ほどにいらした。淡い桃色のドレスに白百合の髪飾り。大きな瞳が潤んで見えるのは、生まれつきのものだろう。ディートリヒ様の足がそちらへ向かう。私は自然に離れた。これも、もう慣れていた。
しばらくの間、私は壁際で宰相家の令嬢と言葉を交わしていた。税制の改定について意見を求められ、領地運営の観点から幾つか述べる。彼女は頷きながらメモを取っていた。こういう会話なら得意だ。数字と制度の話は、感情を挟まなくて済む。
声が聞こえたのは、そのときだった。
広間の中央、ディートリヒ様が数名の男性貴族に囲まれている。杯を片手に、機嫌よく笑っていた。
「——いやあ、うちの婚約者はね」
声が通る。彼は社交の場で声を張るのが上手い。
「口うるさいだけの女でね。帳面がどうだ、封印がこうだと、朝から晩まで報告ばかりだ。少しは黙って微笑んでいてほしいものだよ」
笑い声が広がった。追従。あるいは本気の共感。
「その点、ナターシャは違う。あの子は微笑むだけで美しいだろう? 声を荒らげることもなく、ただ傍にいてくれる。あれこそ淑女というものだ」
もう一度、笑い声。
私は宰相家の令嬢との会話を続けていた。声は聞こえていた。隣にいた彼女も聞こえていたはずだ。彼女は、私の顔を一瞬だけ見て、何も言わずに視線を手元の杯に落とした。
その沈黙が、同情なのか気遣いなのか、あるいは気まずさなのか。
どれでも構わなかった。
私は微笑んでいた。唇の形を保っていた。手袋の中で爪が掌に食い込んでいることに、ずいぶん経ってから気がついた。
広間の魔灯が白く冷たく、すべてを照らしている。彼の笑顔も、周囲の追従も、壁際で微笑みを貼り付けている私も。
——口うるさいだけの女。
そうだ。私は口うるさいのだろう。結界の維持に異常がないか報告し、条約封印の更新期限を伝え、交易路の魔獣封じの状況を進言する。すべて声を使う仕事だった。声を上げなければ守れないものばかりだった。
それを、うるさいと。
広間の隅で、誰かが小さな声で言った。
「公爵家のご婚約者、お気の毒ね」
お気の毒。
その言葉が耳に触れた瞬間、何かが——折れた、のとは違う。もっと静かに、ずっと前から罅が入っていたものが、最後の一片を落としただけだった。
音もなく。
◇
帰りの馬車は暗かった。
エルザが向かいの席に座っている。魔灯は点けなかった。揺れる車体の中で、窓の外を流れる街灯だけが明暗を繰り返す。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
「エルザ」
「はい」
「——もう、十分だと思わない?」
声が少し掠れた。今朝の詠唱のせいではない。
エルザは答えなかった。暗がりの中で、衣擦れの音がした。それから、小さく、けれどはっきりと。
「十年前から、そう思っておりました」
私は笑った。泣いてはいない。泣く段階はとうに過ぎていた。
「十年。そう、十年ね」
十年。この家で暮らし始める前から、声紋術師としての任を受けた日から。毎朝、夜明け前に起き、冷たい詠唱の間で一人声を上げてきた。
喉に鉄の味を残して帰り、報告書を書き、読まれない書斎に届け、耳障りだと言われ、微笑んで下がる。
それを、十年。
「お嬢様」
エルザの声が、暗がりの中で低く響いた。
「お嬢様の声は、耳障りなどではありません。——あの方が聴こうとしなかっただけです」
車輪が石畳の継ぎ目を越える振動が、座席越しに伝わってくる。
私は懐に手を入れた。声紋石はここにはない。化粧台の引き出しにしまってきた。掌に何もない。それなのに、水晶の重さをまだ覚えている指が、空を握った。
◇
翌朝、詠唱の間から戻って、私は引き出しを開けた。
声紋石を取り出す。今朝の記録を刻む。澄んだ音が返る。いつもと同じ。結界は正常。封印に異常なし。
声紋石を布に包み直し、その隣に視線を落とした。
引き出しの奥に、一通の書簡がある。
辺境公爵ヴォルフガング・フォン・ノルトヴァルトからの招聘状。三月前に届き、丁寧なお断りの返事を書こうとして——まだ書いていなかった。
封を切ったときの紙の手触りを覚えている。厚い羊皮紙。飾り気のない、実務的な筆跡。
文面は短かった。辺境に古代魔獣がいること。封印が弱まっていること。声紋術師の力が必要であること。
そして、最後の一行。
『あなたの声を、正しく必要とする地があります』
正しく必要とする。
その一行を、昨夜まで私は読み流していた。社交辞令だと思っていた。あるいは、辺境の地方領主が形式的に書いた一文だと。
けれど今朝は、違って見えた。
口うるさいだけの女の声を——正しく、必要とする。
招聘状を机の上に置いた。封印の楽譜の隣に。声紋石の隣に。
窓の外で、鳥が一羽鳴いた。明るい声だった。
昨夜折れたものの代わりに、何かがまっすぐに立ち上がるのを感じていた。それが何なのか、まだ名前はつけられない。
ただ、もう一度あの一行を読んだ。
——あなたの声を、正しく必要とする地があります。
その一行が、私の背中を押した。




