第1話 耳障りな声
詠唱の間には、まだ朝の色がない。
高い天井を支える石柱のあいだを、冷たい空気が流れている。蝋燭はとうに落ち、窓硝子の向こうに薄い灰色がにじみ始めたばかり。王宮の誰もが寝静まった時刻に、この場所で声を上げるのは私だけだ。
息を整える。足元の石床から這い上がってくる冷えが、薄い室内履きを通して指先に届く。
声紋石を左手に乗せた。掌に収まる水晶の塊は、いつも少しだけ温かい。私の声を覚えているから——そう教わったのは、もうずいぶん前のことだ。
詠唱を始める。
声が石柱に当たり、天井に跳ね、空間の隅々まで広がっていく。旋律は決まっている。音の高さも、伸ばす長さも、ひとつとして揺らいではいけない。王宮結界の維持とは、つまりそういうことだった。正しい音を、正しい順に、正しい長さで。毎朝、欠かさず。
喉が震える。声紋魔法は体力を使う。一音ごとに魔力が声に乗り、結界の綻びを繕い、封印のほつれを締め直す。終わる頃にはいつも、喉の奥に鉄の味がした。
最後の一音が消えた。
声紋石が、澄んだ音をひとつ返す。今朝の詠唱は正常。結界に異常なし。条約封印の状態、安定。
私はその記録を石に刻み、布で包んで懐にしまう。報告用の記録とは別に、私はいつも自分の手元にひとつ残しておく。なぜそうしているのか、自分でもうまく説明できない。声紋石が返す澄んだ音を、もう一度聴きたいだけかもしれない。
誰もいない詠唱の間を振り返る。
高い窓から、ようやく朝の光が一筋入った。埃が金色に舞っている。毎朝この景色を見る。毎朝、私しか見ない。
◇
公爵邸に戻ったのは、朝食の鐘が鳴る少し前だった。
廊下に花の香りが漂っている。白百合。ナターシャ様がいらしている日は、いつもこの匂いがする。ディートリヒ様がお好きだと知っていて、来るたびに持参されるのだ。
応接室の扉が細く開いていた。中から、笑い声。ナターシャ様の柔らかな声と、ディートリヒ様の機嫌のよい低い声。
私は扉の前で足を止め、一度だけ息を吸った。
ノックをする。声をかける。
「ディートリヒ様、本日の詠唱の報告がございます。結界の——」
「ああ、リーゼ」
彼は私の方を見なかった。ティーカップを傾けたまま、視線はナターシャ様に向いている。
「黙っていてくれ。今は取り込み中だ」
「——かしこまりました。では、報告書を書斎にお届けいたします」
「ああ、そうしてくれ。……ああ、それと」
ようやくこちらを見る。眉の間に、小さな皺。
「君の声は朝から響くから、耳障りなんだ。もう少し静かにできないのか」
応接室の奥で、ナターシャ様が小さく目を伏せた。困ったように。あるいは、申し訳なさそうに。
私は微笑んだ。
「失礼いたしました」
扉が閉まる。廊下に白百合の残り香。
報告書は彼の書斎に届ける。いつもそうしている。届けた報告書をディートリヒ様が読んだことは、おそらく一度もない。
◇
自室に戻ると、エルザがすでに茶を淹れてくれていた。
「お嬢様、お帰りなさいませ。喉の具合はいかがですか」
「ありがとう、大丈夫。今朝は調子がよかったわ」
声紋石を机の上に置く。布を開くと、水晶の中に朝の詠唱がまだ微かに光を帯びている。
エルザは黙ってそれを見つめ、小さく頷いた。この女性は、声紋石が何を記録しているか知っている。十年も私に仕えてくれた人だ。毎朝、私より先に起きて喉を潤す白湯を用意し、詠唱の間へ向かう私を見送り、帰ってくる私の喉を気にかける。
「今朝も、おひとりでしたか」
「ええ。いつも通りよ」
エルザはそれ以上何も言わなかった。ただ、茶を少しだけ熱めに淹れてあった。
私は封印の楽譜を棚から取り出した。声紋術師だけが読める特殊記法の楽譜。条約封印の更新手順がすべて記されている。
ページを繰る。紙は古く、端がわずかに黄ばんでいる。この楽譜を引き継いだ日、師匠は言った。これを読めるのは、王国にお前ひとりだ、と。
条約封印の更新期限が近い。隣国との不可侵条約を維持するための封印は、定期的に声紋術師が詠唱を重ねなければ効力を失う。
ディートリヒ様は、この楽譜を「歌の譜面」と呼んだことがある。婚約の挨拶に来た日、書斎でこの楽譜を見て、ああ、君は歌が好きなのか、と笑った。訂正しようとして、やめた。説明しても、聞いてはもらえないと分かっていたから。
楽譜を元に戻し、声紋石を引き出しにしまう。
今日もまた、報告書は読まれないだろう。結界の維持も、条約封印も、交易路の魔獣封じも、ディートリヒ様にとっては「声を出しているだけ」の仕事だ。
◇
その日の夕刻、廊下を歩いていたとき、声が聞こえた。
応接室から。扉は先ほどと同じように細く開いている。
「ナターシャは、微笑むだけで場が華やぐだろう? あの大きな瞳で見上げられると、守ってやりたくなる」
ディートリヒ様の声。穏やかで、甘い響き。私に向けたことのない声音。
「それに比べて——」
比べて、の後に、何が続いたのか。
私は聞かなかった。足を止めなかった。廊下を歩き続けた。靴音を立てないように。白百合の残り香が追いかけてくる。
自室の扉を閉めたとき、手の中に声紋石があった。いつ懐から取り出したのか覚えていない。水晶の表面に、今朝の詠唱の光がまだ残っている。
澄んだ音。私の声。この王国の結界を繕い、条約の封印を支え、交易路の安全を守る音。
ディートリヒ様は、この音を聴いたことがない。聴こうとしたことがない。
——耳障りだ、と。
声紋石を握る手に、少しだけ力がこもった。
明日もまた、夜の明けないうちに詠唱の間へ行く。誰にも見られず、誰にも感謝されず、喉の奥に鉄の味を残して。
あの人は知らない。知ろうともしない。
この声が止まった日に何が起こるのか。




