第六話 竜核
室内から音が消えた。
いや、正確には違う。
暖炉で薪が爆ぜる小さな音も、窓の外を吹き抜ける風の音も確かに存在しているのに、それらすべてが遠くへ引き剥がされたみたいに感じられたのだ。
ルカは自分の呼吸音だけをやけにはっきり聞いていた。
胸が痛いほど脈打っている。
『……ルカの魔力に、竜核反応が出ている』
アシュレイヴの言葉が、頭の中で何度も反響していた。
竜核。
その単語の意味くらい、ルカでも知っている。
竜の心臓。
膨大な魔力の源。
そして、龍王そのものを成立させる核。
そんなものが、自分の中に?
「……あり得ません」
最初に口を開いたのはセレスフィアだった。
普段ほとんど感情を表へ出さないエルフが、珍しく険しい顔をしている。
「半竜に竜核反応など、記録にも存在しない。ましてこの強さは……」
「だが実際に出ている」
アシュレイヴは静かに返した。
その視線はまだルカへ向けられている。
まるで何かを確かめるような目だった。
ルカは思わず後ずさる。
「ぼ、僕は何も……」
「落ち着け」
低い声が落ちる。
不思議と、その一言だけで少し呼吸が戻った。
アシュレイヴはゆっくりルカへ近付く。
黒い衣が揺れる。
近付くだけで空気が変わるのだから、この人は本当に人ではないのだと時々思う。
「……身体に異変は」
「え」
「最近、魔力暴走や発熱はあったか」
ルカは言葉に詰まった。
あった。
昨夜からずっと、身体の奥が熱い。
しかも今朝、竜語を聞いた時には瞳が完全に変化していた。
隠そうか迷ったが、アシュレイヴの視線から逃げられない。
「……少しだけ」
「どの程度だ」
「胸が熱くなったり、声が聞こえたり……あと、時々」
ルカはそっと首筋へ触れる。
「鱗が増えます」
沈黙。
セレスフィアの表情がさらに険しくなる。
アシュレイヴだけが静かだった。
やがて王は、小さく息を吐く。
「……やはり封印の影響か」
「封印?」
ルカが顔を上げると、アシュレイヴは窓の外へ視線を向けた。
青空の遥か向こう。
北方。
誰も見えない場所を見ているようだった。
「境界の封印は、龍王の魔力と繋がっている」
「はい……」
「封印が軋めば、竜の因子を持つ者へ影響が出る」
ルカは息を呑む。
つまり今、自分の中で起きている変化は、北方の封印異常と関係しているのだ。
だが、理解できないことがある。
「でも、どうして僕だけ……」
半竜は珍しい。
だが存在しないわけではない。
それなのに、なぜ自分だけが竜語を聞き、竜核反応などという異常を起こしているのか。
セレスフィアが低く呟く。
「……普通の半竜ではないのでしょう」
その瞬間、ルカの背筋が冷えた。
普通じゃない。
その言葉は、昔から何度も聞いてきた。
幼い頃。
辺境の村で。
怯えた大人たちに。
気味悪そうな目をした子供たちに。
『あれはおかしい』
『竜の呪い子だ』
『普通じゃない』
喉の奥が詰まる。
知らないうちに指先が震えていた。
その時だった。
「ルカ」
静かな声が落ちる。
顔を上げると、アシュレイヴが目の前に立っていた。
長い指が、そっとルカの額へ触れる。
びくりと身体が震えた。
冷たい。
けれど不思議と安心する温度だった。
「……違う」
「え……」
「お前は異常ではない」
低い声が、真っ直ぐ胸へ落ちる。
「少なくとも、私はそう思わない」
ルカは言葉を失った。
あまりにも自然に言うから。
まるで、本当にそう思っているみたいに。
セレスフィアが静かに目を細める。
たぶん驚いているのだろう。
龍王がこんな風に他者へ触れること自体、珍しいのかもしれない。
アシュレイヴはそのままルカの魔力を探るように目を閉じた。
次の瞬間。
ぞわり、と。
巨大な魔力が流れ込んでくる。
ルカは息を呑んだ。
深い。
圧倒的だった。
夜空より深く、海より重い魔力。
飲み込まれそうになる。
だが同時に、不思議な懐かしさがあった。
怖いのに、拒絶したくない。
すると。
ルカの胸の奥で、何かが脈打った。
どくん、と。
心臓とは別の鼓動。
「っ……!」
熱い。
苦しい。
ルカは咄嗟に胸を押さえた。
同時に、淡い金色の光が身体の内側から漏れ始める。
セレスフィアが息を呑む。
「陛下、離れてください!」
だがアシュレイヴは動かなかった。
むしろ驚いたように目を見開いている。
ルカにはもう周囲がよく見えなかった。
熱い。
身体が裂けそうだ。
頭の奥で無数の声が響いている。
竜語。
古い言葉。
知らないはずの声。
『――継げ』
『器を』
『最後の』
意味が分からない。
けれど恐ろしかった。
「ぁ……っ」
視界が揺れる。
床へ崩れ落ちかけた瞬間、誰かの腕が支えた。
アシュレイヴだった。
「ルカ」
低い声が近い。
その瞬間、不思議なくらい声が静まる。
まるで嵐が遠ざかるみたいに。
ルカは荒い呼吸を繰り返しながら、ぼんやりアシュレイヴを見上げた。
王の表情は珍しく険しい。
焦りに近いものすら滲んでいる。
「……陛下」
「喋るな」
「今の、何……」
アシュレイヴは答えなかった。
代わりにルカを抱え上げる。
「えっ」
「部屋を移す」
「じ、自分で歩けます……!」
「無理だ」
即答だった。
ルカは真っ赤になった。
だが抗議する余裕もない。
身体から力が抜けている。
セレスフィアが険しい顔で口を開く。
「陛下、その子は危険です」
ぴたり、と空気が止まる。
ルカの指先が強張った。
危険。
やっぱりそうなのだ。
自分は。
だが次の瞬間、アシュレイヴの声が静かに落ちた。
「……だから何だ」
低い。
けれど絶対零度みたいな声音だった。
セレスフィアすら言葉を止める。
アシュレイヴはルカを抱えたまま、ゆっくり振り返った。
「この子は私の庇護下にある」
金色の瞳が静かに細められる。
「誰にも傷つけさせん」
その言葉を聞いた瞬間。
ルカの胸の奥で、何かがひどく痛んだ。




