第五話 王の執務室
龍王の執務室へ入るのは、何度経験しても緊張する。
王宮中央塔の最上階。
厚い黒檀の扉の向こうに広がるその部屋は、豪奢というより静謐だった。
壁一面を埋める古い書架。
天井近くまで伸びた大きな窓。
深い青の絨毯。
重厚な机の上には整然と書類が積まれていて、余計な装飾品はほとんど置かれていない。
この国の頂点に立つ者の部屋だというのに、どこか冷たく、生活感が薄い。
まるで長い年月の間、誰にも踏み込ませないまま閉ざされていた場所みたいだった。
アシュレイヴは部屋へ入るなり外套を脱ぎ、机の傍らへ無造作に置いた。
「座れ」
短く言われ、ルカは恐る恐るソファへ腰を下ろす。
ノアが肩から離れ、小さな光を散らしながら室内を飛び回った。
どうやらこの部屋は嫌いではないらしい。
むしろ落ち着いている。
精霊は“安全な場所”を好む。
それを思うと少し不思議だった。
アシュレイヴは誰より危険な存在のはずなのに、精霊たちは時折こうして静かに寄り添う。
たぶん、根源的な力の質が近いのだろう。
王は机へ向かう前に、ちらりとルカを見た。
「目は戻ったか」
「……はい」
ルカはそっと瞳へ触れる。
先ほどの竜化反応は、アシュレイヴが現れた直後に嘘みたいに静まっていた。
今はもう普段通りの淡い金色へ戻っている。
けれど身体の奥では、まだ熱が燻っていた。
「今朝、何を聞いた」
不意に問われ、ルカは息を止める。
やはり隠せない。
この人は本当に鋭い。
「……竜語、です」
「内容は」
少し迷ったあと、ルカは小さく答えた。
「“境界が薄れている”って……あと、“鍵が開く”って」
部屋の空気が静かに沈む。
アシュレイヴはしばらく何も言わなかった。
ただ窓の外を見つめている。
長い沈黙だった。
やがて王は、低く息を吐く。
「やはり始まったか」
「……何が、ですか」
問い返す声は自然と小さくなる。
聞いてはいけない気がした。
けれどアシュレイヴは隠さなかった。
「北方境界の封印劣化だ」
淡々と告げられる。
まるで天気の話でもするみたいに。
だが、その内容の重さは理解できた。
「封印って……そんな簡単に壊れるものなんですか」
「簡単ではない。だが永久でもない」
アシュレイヴは机へ手を置きながら続ける。
「もともと、あれは竜王の命で維持している結界だ。綻びは必ず生まれる」
「それを陛下が抑えているんですよね」
「そうだ」
静かな肯定。
その一言だけで胸が重くなる。
この人は、本当に当たり前みたいに言う。
自分が命を削っていることを。
ルカは膝の上で指を握り締めた。
「……誰か、代われないんですか」
思わず零れた言葉に、アシュレイヴはわずかに目を細めた。
「代わる?」
「だって、ずっと陛下一人が支えてるなんて、おかしいです」
「昔からそういうものだ」
「でも」
「ルカ」
静かに名前を呼ばれ、ルカは言葉を飲み込む。
怒られたわけではない。
けれど、その声には妙な重みがあった。
アシュレイヴはしばらくルカを見つめていたが、やがてぽつりと呟く。
「……お前は時々、竜より人間らしいことを言う」
「え」
「竜は役目を受け入れる生き物だ」
窓から差し込む朝光が黒髪を照らす。
その横顔はひどく静かだった。
「長く生きるほど、“自分のために生きる”という感覚が薄れる」
ルカは何も言えなかった。
その言葉はあまりにも寂しい。
何百年も生きて、戦って、守り続けて。
その果てに、自分自身を失っていくのだろうか。
だからこの人は、あんなにも静かなのかもしれない。
その時、不意に扉が叩かれた。
三回。
規則正しい音。
「入れ」
アシュレイヴが許可すると、重い扉が開く。
現れたのは、長い銀髪のエルフだった。
深緑の法衣。
透き通るような白い肌。
静かな湖を思わせる青灰色の瞳。
宮廷魔術師長、セレスフィア。
彼女は部屋へ入るなり、ちらりとルカを見た。
その瞬間、眉がわずかに動く。
「……珍しいですね」
「何がだ」
「陛下が他人を執務室へ長時間置いているのが」
さらりと言いながら、セレスフィアは机へ数枚の書簡を置いた。
そして、そのままルカを見つめる。
じっと。
観察するように。
ルカは少し居心地が悪くなった。
このエルフは苦手ではない。
むしろ優しい方だ。
けれど時々、全部見透かされている気がする。
「……ルカ」
「は、はい」
「少し魔力を見せてください」
心臓が跳ねた。
アシュレイヴの視線が静かに動く。
ルカは反射的に身構えた。
「な、なんで……」
「先ほどから精霊たちの反応が異常なんです」
言われて気付く。
確かに室内の精霊光が増えていた。
窓辺にも、書架の陰にも、小さな光が集まっている。
しかも全部、ルカの周囲だ。
ノアなど完全にご機嫌でくるくる回っている。
セレスフィアは珍しく真面目な顔をしていた。
「普通ではありません」
低い声だった。
「王宮中の精霊が、この子へ引き寄せられている」
ルカの背筋が冷える。
アシュレイヴは黙っていた。
けれどその沈黙が逆に怖い。
セレスフィアはゆっくり近付いてくると、ルカの前へ片膝をついた。
エルフ特有の細い指が、そっとルカの額へ触れる。
次の瞬間。
室内の空気が変わった。
淡い光が一斉に舞い上がる。
風が吹く。
精霊たちがざわめく。
そして、ルカの身体の奥で眠っていた何かが、微かに目を覚ました。
「……っ」
熱い。
胸の奥が。
金色の光が視界の端で揺れる。
セレスフィアの瞳が大きく見開かれた。
「これは――」
その瞬間。
部屋の奥から、低い声が落ちた。
「それ以上触れるな」
空気が凍る。
アシュレイヴだった。
静かな声音。
だが、圧倒的な威圧がある。
セレスフィアですら動きを止めた。
ルカは息を呑む。
王はゆっくり立ち上がっていた。
金色の瞳がまっすぐルカを見ている。
そして次の言葉で、ルカの心臓は完全に止まりかけた。
「……ルカの魔力に、竜核反応が出ている」




