第四話 名を持たぬもの
翌朝、王宮は何事もなかったかのように動いていた。
夜明けと共に鳴る鐘の音。
厨房から漂う焼き立てのパンの匂い。
中庭を巡回する騎士たちの足音。
侍女たちの忙しない声。
昨日、西塔最上階で窓が砕け、龍王の魔力が暴走しかけていたなど、誰一人知らないまま、王宮はいつも通りの朝を迎えている。
ルカは中庭へ続く回廊を歩きながら、小さく息を吐いた。
昨夜はほとんど眠れなかった。
自室へ戻ったあとも、耳の奥ではアシュレイヴの竜語がずっと反響していたし、何より最後に向けられたあの視線が頭から離れない。
『お前の声は、直接魔力へ届いていた』
あれがどういう意味なのか、ルカには分からなかった。
けれど少なくとも、自分が普通ではないことだけは理解できる。
半竜という時点で十分異端なのに、その上さらに龍王へ干渉できるなど、あまりにも異常だ。
「……はぁ」
思わず溜息が漏れる。
すると肩の上でノアがぽふぽふ光った。
『元気ない』
「誰のせいだと思ってるの」
小声で返すと、光精霊はころころ笑うように明滅した。
精霊は感情に敏感だ。
だから今朝のルカの落ち着かなさも全部伝わっているのだろう。
回廊の窓から朝日が差し込む。
柔らかな光の中を歩きながら、ルカは無意識に首筋へ触れた。
昨夜、魔力の余波を受けたせいか、皮膚の下がまだ熱い。
触れると微かに鱗の感触がある。
半竜の血が刺激されている証拠だった。
あまり良くない状態だ。
このまま感情が乱れれば、角や瞳が変化するかもしれない。
できれば今日は誰にも会いたくなかった。
「……ルカ」
低い声に呼び止められ、ルカはびくりと肩を震わせた。
振り返ると、回廊の先に大柄な男が立っている。
銀灰色の髪。
鋭い琥珀の瞳。
騎士服の上からでも分かる鍛え抜かれた体格。
龍王近衛騎士団長、ガルド・レヴェイン。
王宮でも特に威圧感の強い人物の一人だった。
狼系獣人である彼は、ただ立っているだけで空気を圧迫する。
ルカは反射的に背筋を伸ばした。
「お、おはようございます」
「顔色が悪い」
「……そうですか?」
「隈がある」
即答だった。
ガルドはずかずかと近付いてくると、じろりとルカを見下ろす。
鋭い視線に、ルカは少しだけ肩を縮こまらせた。
昔から、この人は苦手だ。
別に理不尽に怒鳴られたことはない。
半竜だからと露骨に嫌悪されたこともない。
けれど、常に観察されている感覚がある。
まるで危険な生き物を警戒するみたいに。
「昨夜はどこにいた」
「え……」
「西塔で妙な魔力反応があった」
ルカの心臓が跳ねた。
やはり騎士団には気付かれていたのだ。
だが表情へ出さないよう必死で耐える。
「……書庫整理を」
「一人でか」
「はい」
ガルドはしばらく黙っていた。
獣人特有の鋭い嗅覚があるせいか、この人と話していると嘘まで見抜かれそうで落ち着かない。
やがて騎士団長は低く言った。
「陛下は」
ルカの呼吸が止まる。
「……今朝から執務に出ておられる。問題はない」
「っ……」
「だが、妙だ」
ガルドの視線が細くなる。
「昨夜の魔力は、明らかに龍王級だった」
ルカは何も言えなかった。
胸の奥がざわつく。
もし昨夜のことが知られれば、王宮は混乱するだろう。
龍王の不調など、国そのものの揺らぎに等しい。
「お前、何か見たか」
真っ直ぐ問われる。
ルカは唇を噛んだ。
嘘は苦手だ。
けれど、言えるはずもない。
「……何も」
その時だった。
回廊の空気がふっと揺らぐ。
次いで、ひやりとした気配が背後を撫でた。
ルカは反射的に振り返る。
誰もいない。
だが。
精霊たちがざわめいていた。
窓辺。
柱の陰。
天井近く。
淡い光の粒たちが一斉に怯えたように震えている。
ノアなど完全にルカの肩へ隠れてしまっていた。
「……どうした」
ガルドが眉を寄せる。
ルカは返事をしなかった。
代わりに、ゆっくり呼吸を整える。
聞こえる。
何かが。
遠くから、低く軋むような音が。
いや、違う。
これは――声だ。
竜語。
『――境界が、薄れている』
ぞくり、と背筋が粟立つ。
まただ。
また勝手に聞こえる。
しかも今度は昨夜より遥かに遠い。
王宮の外。
もっと北。
冷たい雪と古い石の匂いが混ざるような、不気味な声。
「ルカ?」
ガルドの声が遠い。
ルカは無意識に耳を押さえた。
頭の奥へ直接響く。
『鍵が、開く』
瞬間。
視界が揺れた。
ルカの瞳に金色の紋様が浮かぶ。
まずい、と理解した時には遅かった。
竜の血が反応している。
空気中の魔力へ引っ張られるように、身体の奥が熱を持ち始める。
「っ、ぁ……」
「おい」
ガルドの声色が変わった。
次の瞬間、ぐい、と肩を掴まれる。
「お前、目が――」
言葉が途中で止まる。
ルカは咄嗟に顔を背けた。
見られた。
金色へ変わった瞳を。
半竜化の兆候を。
しまった、と思う。
だが遅い。
ガルドの手に力が入った。
騎士団長の鋭い瞳がルカを射抜く。
「……何を隠している」
低い声だった。
空気が張り詰める。
逃げ場はない。
ルカは息を呑み、唇を噛み締めた。
その時。
「――ガルド」
静かな声が回廊へ落ちた。
空気が変わる。
振り返った先。
朝の光の中に、アシュレイヴが立っていた。
漆黒の王装。
長い黒髪。
金色の竜眼。
昨夜あれほど苦しんでいたとは思えないほど、いつも通りの完璧な姿。
けれどルカだけは分かる。
この人は無理をしている。
目の奥に微かな疲労が残っている。
「陛下」
ガルドが即座に膝を折る。
だがアシュレイヴの視線はルカへ向けられていた。
ほんの一瞬。
ルカの金色の瞳を見る。
それだけで、全部察したのだろう。
「その子を放せ」
穏やかな声だった。
だが逆らえない響きがある。
ガルドは少しだけ眉を寄せた。
「ですが陛下、この者は――」
「私の側仕えだ」
静かに遮る。
「問題はない」
騎士団長は数秒黙っていたが、やがてゆっくり手を離した。
ルカはようやく呼吸を取り戻す。
けれど安心するより先に、アシュレイヴがこちらへ歩み寄ってきた。
金色の瞳が真っ直ぐルカを見下ろす。
「……来い」
短い言葉だった。
だがルカには、それが命令ではなく“保護”なのだと分かってしまった。




