第三話 触れてはならない熱
アシュレイヴの身体が傾いた瞬間、ルカはほとんど反射で駆け出していた。
「陛下!」
床へ崩れ落ちかけたその身体を支えた途端、熱、と呼ぶにはあまりにも異常な魔力の奔流が腕を駆け抜け、ルカは息を呑んだ。
熱い。
けれど火の熱ではない。
嵐そのものへ触れたみたいな感覚だった。
暴れ狂う膨大な力が、アシュレイヴの内側で制御を失いかけている。
窓硝子が次々と軋み、精霊灯が明滅を繰り返す。
部屋中の空気が震えていた。
それでもルカは咄嗟に王の肩を抱え込む。
離してはいけないと、本能みたいなものが叫んでいた。
「……っ、陛下、しっかり……!」
「触れるな」
低く掠れた声が落ちる。
だが普段のような余裕はない。
アシュレイヴは苦しげに眉を寄せながら、自分の胸元を押さえていた。
黒い外套の隙間から覗く肌に、淡い金色の紋様が浮かび上がっている。
まるで鱗だ。
いや、違う。
これは竜化の兆候。
制御しきれない魔力が肉体へ溢れ返っている。
ルカの背筋が冷えた。
ノアが怯えたように鳴く。
小さな光精霊はルカの肩へしがみつきながら、青白い光を明滅させていた。
精霊たちが騒いでいる。
部屋の隅で、窓辺で、見えない風の中で、無数の気配がざわめいていた。
まるで何かを恐れるみたいに。
「……封印、ですか」
ルカが震える声で問うと、アシュレイヴは答えなかった。
代わりに、喉の奥で低く唸る。
その音にルカの身体がびくりと震えた。
竜の声だ。
人の喉では出せない、古く重い響き。
空気そのものが圧されるような感覚に、半竜であるルカですら呼吸が苦しくなる。
普通の人間なら立っていられないだろう。
けれどアシュレイヴは、それでもルカから距離を取ろうとしていた。
「離れろ」
「嫌です」
「……ルカ」
「離れません」
自分でも驚くほど即答だった。
アシュレイヴの金色の瞳がわずかに見開かれる。
ルカは王の肩を抱えたまま唇を噛んだ。
怖くないわけじゃない。
正直、足は震えている。
膨大すぎる魔力に、本能が逃げろと警鐘を鳴らしていた。
けれど、それ以上に。
今ここでこの人を独りにしてはいけないと、そう思った。
「……いつも、そうなんですか」
「何がだ」
「こうやって、一人で耐えてるんですか」
アシュレイヴが沈黙する。
それが答えだった。
ルカの胸の奥がひどく痛んだ。
王だから。
龍王だから。
国を守る存在だから。
きっと誰にも弱みを見せられなかったのだろう。
誰も、この人が苦しむことを前提に生きている。
それが当たり前だと思っている。
あまりにも、独りだ。
その時だった。
アシュレイヴの背後で黒い影が大きく揺らぐ。
次の瞬間、轟、と部屋全体へ凄まじい圧力が叩きつけられた。
書架が軋み、本が床へ落ちる。
窓硝子が砕け散った。
吹き込んだ夜風に銀髪が舞う。
そしてルカは見た。
アシュレイヴの右腕を覆い始めた黒い鱗を。
「……っ」
完全な竜化ではない。
だが制御が崩れている。
このまま暴走すれば、王宮そのものが吹き飛ぶかもしれない。
ルカは息を呑んだ。
どうすればいい。
魔術師を呼ぶべきか。
騎士団を。
いや、違う。
もしここへ人が来れば、アシュレイヴはさらに自分を抑え込もうとする。
そんな気がした。
ルカは無意識にアシュレイヴの手を握った。
驚くほど熱い。
それなのに、王の指先は微かに震えていた。
初めてだった。
この人がこんな風に揺らいでいる姿を見るのは。
「……陛下」
呼びかける。
アシュレイヴは返事をしない。
苦しげに呼吸を繰り返している。
だからルカは、ほとんど無意識に口を開いていた。
『落ち着いてください』
竜語だった。
自分でも気付かないうちに、古い言葉が零れていた。
その瞬間。
空気が止まる。
アシュレイヴの瞳が見開かれた。
黒い影が揺れる。
ルカ自身も息を呑んだ。
しまった、と思った時にはもう遅い。
だが。
不思議なことに。
暴れていた魔力が、ほんのわずかに静まった。
ノアがぱちぱちと光を瞬かせる。
周囲で騒いでいた精霊たちも、一瞬だけ動きを止めた。
アシュレイヴはルカを見ていた。
信じられないものを見るような目だった。
「……今、何を」
「……わ、分かりません」
本当に分からなかった。
ただ、自然に言葉が出た。
昔からそうだった。
竜語を“翻訳している”感覚ではない。
もっと当たり前に、呼吸みたいに理解できるのだ。
アシュレイヴはしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくり目を閉じる。
すると周囲を満たしていた圧力が少しずつ薄れていった。
砕けた窓から冷たい夜風が吹き込む。
ルカはようやく息を吐いた。
心臓がうるさいくらい鳴っている。
「……抑え込めた」
ぽつりとアシュレイヴが呟く。
その声音には、わずかな困惑が混ざっていた。
「普通、他者の竜語は干渉にならない」
「え……」
「竜同士ですらな」
金色の瞳が静かにルカを映す。
その視線が、妙に熱かった。
「お前の声は、直接魔力へ届いていた」
ルカは言葉を失う。
そんなこと、自分には分からない。
ただ必死だっただけだ。
アシュレイヴを止めたかった。
独りで壊れていく姿を見たくなかった。
それだけなのに。
沈黙が落ちる。
窓の外では月が高い。
砕けた硝子の破片が床で青白く光っていた。
やがてアシュレイヴは、小さく息を吐く。
「……今夜のことは他言するな」
「はい」
「特に、私の状態は」
「……分かっています」
ルカは頷いた。
王が弱っていると知られれば、国が揺らぐ。
それくらいは理解できる。
だが。
ルカは少し迷ったあと、そっと口を開いた。
「でも……独りで耐えるのは、もう駄目です」
アシュレイヴが微かに目を細めた。
「お前に何ができる」
「分かりません」
正直に言う。
「でも、少なくとも……今夜みたいに、誰にも知られず苦しんでるのは嫌です」
言い切った瞬間、自分でも驚くほど胸が熱くなった。
たぶん怒られる。
出過ぎたことを言った。
けれどアシュレイヴは怒らなかった。
ただ静かにルカを見つめている。
その視線があまりにも真っ直ぐで、ルカは思わず息を止めた。
やがて王は、ひどく低い声で呟く。
「……変な半竜だ」
その声はどこか、少しだけ優しかった。




