第二話 黒曜の王
王宮の西塔は、夜になると死んだように静かだ。
昼間であれば記録官や魔術師たちが行き交い、古い羊皮紙の匂いと紙を捲る音で満ちているその場所も、深夜ともなれば精霊灯の淡い明かりだけが細い螺旋階段を照らし、窓の外から吹き込む夜風が時折、古びた書架を軋ませるくらいしか音がない。
だが今のルカには、その静寂がひどく遠く感じられた。
『――竜語を識る半竜など、本来あり得ない』
先ほどアシュレイヴに向けられた言葉が、ずっと耳の奥に残っている。
静かな声音だった。
責めるでもなく、怒るでもなく。
それなのに、胸の奥が冷たくなるほど鋭かった。
ルカは西塔最上階の保管室へ書簡を置き終えると、小さく息を吐いた。
窓の外では夜空が深い藍色に沈んでいる。
満月が近い。
そのせいか、身体の奥で竜の血が妙に騒いでいた。
落ち着かない。
嫌な感じだった。
「……ルカ」
不意に後ろから声が落ちてきて、ルカは反射的に振り返った。
いつの間にか、部屋の入口にアシュレイヴが立っていた。
黒い外套が夜の影と溶け合うようで、一瞬、本当にそこにいるのか分からなくなる。
王はゆっくり部屋へ入ってくると、書架の間を静かに歩いた。
重たい沈黙だった。
ルカは無意識に喉を鳴らす。
怒られるのだろうか。
それとも、問い詰められるのか。
竜語を理解できることを知られた以上、このまま何も変わらないはずがない。
昔から隠してきた。
誰にも話さなかった。
話せばきっと気味悪がられると思っていたからだ。
半竜というだけで十分異質なのに、さらに“竜の言葉を理解できる”など知られれば、何を言われるか分からない。
アシュレイヴはルカの前で足を止めた。
金色の瞳が静かにこちらを見下ろす。
「……いつからだ」
「え……」
「竜語だ。いつから理解できた」
ルカは答えに詰まった。
誤魔化せる空気ではない。
少し迷った末、視線を伏せる。
「……小さい頃から、です」
「誰かに話したか」
「いいえ」
「なぜ」
なぜ。
そんなもの、決まっている。
「怖かったので」
ぽつりと零した瞬間、部屋が静かになった。
ルカは唇を噛む。
情けない答えだったと思う。
けれど事実だった。
「半竜なだけで、十分変なんです。なのに、普通は聞こえない言葉まで分かるなんて……知られたら、きっと」
化け物だと思われる。
最後までは言えなかった。
けれどアシュレイヴは察したのだろう。
ほんのわずかに目を伏せた。
「……誰がお前にそんな顔をさせた」
「え」
「誰が、お前に怯えた」
低い声だった。
怒っているわけではない。
けれどその奥に、冷たいものが滲んでいる。
ルカは慌てて首を横に振った。
「ち、違います、別に誰かが何かしたわけじゃ……」
「人は、自分が恐れたものを無意識に傷つける」
アシュレイヴは静かに言った。
「お前は昔から、それを理解しすぎている」
ルカは何も返せなかった。
王の言葉は、時々驚くほど正確に胸の奥を突いてくる。
沈黙が落ちる。
窓の外では風が強くなっていた。
遠くで鐘の音が響く。
夜警の交代時刻だ。
その音を聞きながら、アシュレイヴはふいに窓辺へ歩み寄った。
長い黒髪が月光を受けて揺れる。
王というより、夜そのものみたいだ、とルカは思った。
「……陛下」
「なんだ」
「さっきの、“封印”って……」
言いかけた瞬間、アシュレイヴの沈黙が少しだけ深くなる。
聞いてはいけないことだっただろうか。
そう思ったが、やがて王は小さく息を吐いた。
「この国の北方には、“境界”がある」
「境界……?」
「昔、災厄を封じた場所だ」
ルカは目を瞬かせる。
幼い頃に昔話として聞いたことがある。
古代、大陸を焼いた魔物たち。
竜ですら滅ぼした厄災。
それを封じるために、最初の龍王が命を捧げたのだと。
だが、それは神話のようなものだと思っていた。
「まさか、本当に……」
「神話ではない」
アシュレイヴは淡々と言った。
「封印は今も存在している。そして、それを維持しているのが歴代の龍王だ」
ルカの喉がひゅ、と鳴った。
つまり。
この国は今もなお、滅びの上に立っているということだ。
「では……陛下は」
「私は結界の核だ」
さらりと言われた言葉の重さに、ルカは息を忘れた。
アシュレイヴは振り返らない。
月を見たまま続ける。
「竜王が代々短命なのは、そのせいだ。国を守るために魔力を消費し続ける。眠っていても、食事をしていても、常にな」
「そんな……」
「驚くことではない。昔からそういう役目だ」
静かな声だった。
受け入れている声。
だからこそ、ルカは胸が痛くなる。
役目だから仕方ないと、本当に思っているのだろう。
数百年も、独りで。
不意にノアが小さく震えた。
光精霊はルカの肩にしがみつきながら、怯えたようにアシュレイヴを見ている。
その様子にルカは眉を寄せた。
精霊は感情に敏感だ。
つまり今、アシュレイヴの内側には、それほど危うい何かがある。
ルカは気付かないうちに、一歩前へ出ていた。
「……陛下」
「どうした」
「その役目、ずっと独りだったんですか」
アシュレイヴが初めてこちらを見た。
金色の瞳がわずかに揺れる。
ほんの一瞬だった。
けれど確かに、驚いたように見えた。
「独り、とは」
「だって誰も、そんなこと知らないみたいに振る舞うから」
王は完璧だ。
強い。
恐ろしい。
揺るがない。
王宮の誰もがそう信じている。
けれど実際は違う。
この人は今も、命を削りながら国を支えている。
なのに誰も、その痛みを見ようとしない。
「……変ですね」
ルカは小さく笑った。
「皆、陛下に守られているのに」
その瞬間だった。
アシュレイヴがふいに目を細める。
次いで、微かに顔を歪めた。
ルカの心臓が跳ねた。
「陛下?」
返事はない。
代わりに、空気が震えた。
びり、と。
空間そのものが軋むような重圧。
精霊灯が一斉に明滅し、窓ガラスへ亀裂が走る。
そして次の瞬間。
アシュレイヴの背後に、巨大な黒い影が現れた。
竜だ。
半透明の、けれど圧倒的な存在感を持つ古竜の幻影。
黄金の瞳がゆっくり開く。
ルカは息を呑んだ。
竜の魔力が溢れている。
制御が乱れかけているのだ。
「下がれ、ルカ」
アシュレイヴの声が低く落ちた。
けれど、その直後。
王の身体がぐらりと揺れた。




