第一話 月下の竜語
王宮の夜は静かだ。
石造りの長い回廊には淡い精霊灯だけが浮かび、磨き抜かれた床へ青白い光を落としていて、昼間は貴族や騎士たちの声で満ちるその場所も、夜更けを過ぎれば古い神殿のような静寂に沈む。
その静けさが、ルカは嫌いではなかった。
人の少ない時間の方が、余計な視線を向けられなくて済むからだ。
抱えた書簡の束を落とさないよう腕に力を込めながら、ルカは回廊を足早に進む。
窓硝子に映る自分の姿が、一瞬だけ目に入った。
灰銀色の髪。
薄い金の瞳。
そして、耳の上に隠れるように生えた小さな角。
前髪で隠していても、光の加減では時折見えてしまう。
そのたびに侍女たちは目を逸らし、若い騎士たちは気まずそうに口を閉ざした。
半竜。
それがルカという存在だった。
人でもなく、竜でもないもの。
王宮に仕える者の中には表立って蔑む者はいないが、それでも時折向けられる視線には、好奇と恐怖と、ほんの僅かな嫌悪が混ざっている。
もっとも、ルカ自身はもう慣れていた。
慣れてしまった、と言った方が正しい。
「……まだ起きているのか」
不意に低い声が降ってきて、ルカは肩を震わせた。
顔を上げると、回廊の先に長身の男が立っていた。
漆黒の外套。
夜を溶かしたような黒髪。
金色の瞳。
王宮に仕える者ならば、誰もが膝を折る存在。
この国の王。
そして、人の国を守護する最後の竜。
「りゅ――陛下」
慌てて頭を下げると、アシュレイヴは静かにこちらへ歩み寄ってきた。
靴音は驚くほど小さい。
まるで影が滑るみたいだ、とルカは昔から思っている。
「書庫の整理か」
「……はい。西塔の保管庫に古い外交記録が残っていたので、分類を」
「昼間にやれ」
「昼は人が多いので」
言ってから、しまったと思った。
王の前で言うには少し可愛げのない返答だったかもしれない。
けれどアシュレイヴは咎めなかった。
ただ、僅かに目を細める。
「……お前は昔から夜を選ぶ」
低く落ちる声は静かで、責める響きはなかった。
ルカは返事に困って視線を伏せた。
幼い頃からそうだった。
人の視線が少ない夜の方が落ち着く。
王宮へ来たばかりの頃は、角を隠しきれず泣いてしまったこともあるし、竜の血が濃く出た日は瞳が金色に変わってしまい、使用人たちを怯えさせたこともあった。
けれどアシュレイヴだけは、一度も気味悪がらなかった。
『それがお前だ』
昔、まだ幼かったルカへそう言ったことがある。
たったそれだけの言葉だったのに、ずっと忘れられない。
「陛下こそ、まだお休みではないのですか」
「少し風を見に行くだけだ」
風を見る、という言い方をするのは、たぶんこの王くらいだろう。
人とは少し違う感覚で世界を見ているのだと、時々思う。
ルカが抱えていた書簡へ視線を落としたアシュレイヴは、わずかに眉を寄せた。
「重いだろう」
「大丈夫です」
「……そういう返事は信用できん」
小さく息を吐き、アシュレイヴはルカの腕から半分ほど書簡を奪い取った。
「へ、陛下」
「運ぶだけだ」
「ですが――」
「黙って歩け」
有無を言わせぬ声音だった。
けれど不思議と威圧感はない。
隣を歩く黒衣の王からは微かに冷たい夜の匂いがした。
窓の外では月が高く昇っている。
王宮の尖塔群を青白く照らすその光を見上げながら、ルカはふと気付いた。
今日は精霊たちの気配が妙に騒がしい。
淡い光の粒が、回廊の隅でちらちら揺れている。
小さな光精霊のノアなど、さっきから落ち着きなくルカの肩を飛び回っていた。
「……どうしたんだろう」
「精霊が?」
「はい。少し変なんです」
アシュレイヴは答えなかった。
その沈黙に、ルカはなんとなく胸騒ぎを覚える。
西塔へ続く階段を上りきった時だった。
不意に、びり、と空気が震えた。
次の瞬間。
王宮全体を揺らすような低い唸り声が、夜空のどこかから響いた。
ルカの背筋が凍る。
これは知っている。
聞いたことがある。
言葉ではない。
もっと古く、もっと深い――竜の声だ。
同時に、隣のアシュレイヴの気配が変わった。
ぞわり、と。
巨大な何かが目を開いたような圧力が、静かな回廊を満たしていく。
精霊灯が一斉に揺れた。
ノアが怯えたようにルカの胸元へ潜り込む。
アシュレイヴは窓の外を見ていた。
その横顔は静かだったが、金色の瞳だけが鋭く細められている。
やがて、低く掠れた声が落ちた。
『――封印が、軋んでいる』
ルカは息を呑んだ。
それは人語ではない。
本来、竜にしか理解できない古い言葉。
けれどルカには意味が分かってしまった。
昔からそうだった。
誰にも聞き取れない声が、自分には理解できる。
だからこそ、今の言葉の意味も理解してしまった。
封印。
軋む。
それが何を示すのか。
そしてアシュレイヴが今、どれほど深刻な顔をしているのかも。
ルカが思わずその名を呼ぼうとした瞬間、アシュレイヴはゆっくりこちらを振り返った。
その瞳が、わずかに見開かれる。
「……なぜ今の言葉が分かった」
静かな声だった。
けれど、初めて聞くほど鋭かった。
しまった、と思った時にはもう遅い。
驚きのあまり、ルカは無意識に答えてしまっていた。
「え……」
「今、理解したな」
回廊を沈黙が満たす。
月光の下で、王の金色の瞳が真っ直ぐルカを射抜いていた。
その視線から逃げられない。
やがてアシュレイヴは、ひどく静かな声で言った。
『――竜語を識る半竜など、本来あり得ない』




