変わり始める日常
朝課外にも間に合い、無事にその日のすべての活動を終えた伯は生徒会室の戸締りを済ませ校門の前で一人先輩を待っていた。
すでに下校時間を過ぎていて、多くの部活生が教師に煽られるように走って学校敷地内から出ていく。
薄暗く微かに星が瞬く空の下、伯の目線は無意識のうちにレンガの中に埋まった時計へと注がれ、それから門から見た校舎、近代都市の風景へ移っていく。
精神と時間の余裕の無さですっかり頭の片隅に葬っていた記憶が自ら姿を現し、溌剌とした様相で笑いかけてきた。
あれは、あの夢は全部空想だったのだろうか。それとも……。
「――悪い、待たせたな」
式部が合流したことで強制的に考えを遮断される。
それから、ちょっと付き合え、という式部と共に商店街へ歩を向けた。
二人は道中、学校での出来事、面白かった授業、話題のテレビ、といったたわいもない会話に華を咲かせていた。商店街へ入り、本屋に立ち寄る。昨日とも、一昨日とも変わらないありきたりな学生の一時。伯も曇りのない表情を浮かべていた。
騒がしい路地を曲がり、人気のない住宅路を進む伯と式部。
声を張り上げなくとも聞こえるほど辺りは静寂に満ちている。
「悪いな、参考書買うのに付き合わせて。すっかり遅くなってしまった」
「今さら何を言うんですか。
式部先輩とは長い付き合いで僕自身お世話になりっぱなしなので気遣いは不要です。謝られると少しくすぐったいくらいです」
「それもそうか。
…………なら」
そういって式部は一呼吸置き、重い口を開く。
「どうしてあいつと契りを交わしたんだ?」
「……えっ……」
「言ったよな、あの時。
お前が持つべきもじゃないって」
「…………やっぱり夢じゃなかったんですね」
伯は足を止めて軽く俯き、ぽつりと呟く。
起床してから目を背けてきた現実を突きつけられ、心臓が鼓動を速める。
伯は何も答えない。いや、正確には答えられなかった。
式部の言葉が全てを物語っている。
昨日から今日にかけて起こった出来事がすべて実際にあった”現実”なのだと。
しかし、半分流れに身を任せてしまい、かつ状況理解が不十分であったので、怒りを露わにする式部に謝罪することも反発することもできなかった。
素直に応じる気は無いと受け取ったのか、式部は想いを言葉に乗せて言い放つ。
「お前は何もわかっていない。
楽して手に入るものなんてたがが知れているか、代償が大きいものだ。
お前には何かを犠牲にしてまで手に入れたいものなんてないだろう?
お前のことは俺が知ってる。だからこそ分かるんだ。お前のお人よしが他人に利用されているだけだって。
騙されたんだ、あいつに。
……今ならまだ間に合うはずだ。
今日帰って寝て向こうの世界へ行ったら、あいつに言うんだ。自分に力は必要ないって。契約を破棄してすべて忘れさせてくれてって。そうすれば――――」
「やっぱり。式部先輩なら止めると思ってた」
言い寄る式部の背後から忍び寄り止めに入るものがいた。
それは女性、しかも伯も式部も見知った者の声。
式部は警戒しつつゆっくりと振り向く。街灯に照らされ、弐路学園高等部のセーラー服が現れる。
「花代……!」
「俺たちのことつけていたのか」
「先輩の行動はある程度予測できるから念のために。
残念だけれど、伯は自らの意思に基づいて変わる道を選び決断を下した。己のうちに潜んでいた影と向き合い、自らが望んだ未来を手に入れるために」
「例えそうだとしても、お前もわかっているだろう? 伯の馬鹿正直で甘い性格を。俺たちとは別の世界に生きるものだってことも。
それを承知で、こいつを傷つくことがわかりきっている場所へ放り込むっていうのかっ?」
「人は傷つくことを恐れていては前に進むことはおろか、その場に立っていることもできない。
もう彼は子供ではないのだから、自分のことは自分で決めなければならないよ。いい加減彼の権利を奪うことはやめたらどうです?」
「っ!?」
「そうやって伯のことを心配しているように見せかけているけど、本心は――別の恐怖に満ちている。彼が自分のもとから離れていくことを。支配する対象がいなくなってしまうことを」
「っ、この……!
――――」
式部は頭に血が上り花代に掴みかかろうと踏み込む。
二人が何を話しているかは理解できなかったが、このまま傍観していてはいけない、と伯は式部の利き腕をつかんで邪魔をする。
冷静さを取り戻し、振り返る式部。
必死に目と手で訴える伯に説得され、式部は落ち着いた様子で花代に向き直った。
「……それでも俺の考えは変わらない。こいつに責任を背負わせるなんて」
「無理強いはしない。私も酷だってわかっているから。その分を先輩が背負う。それでいいのでは?」
そこで会話は途切れ、近くで車のエンジン音が駆けていった。
花代がこちらへ近づいてくる。
「向こうでね」
伯に対してわずかに笑みを浮かべ、花代は夜道を去っていった。
残された伯と式部。気まずい沈黙を破ったのは背を向けたままの先輩。
「……伯も帰れ。遅くまで付き合わせて悪かったな。あっちでまた会おう」
「……はい」
挨拶をして自転車にまたがり、家路を急ぐ伯。
一人残された式部が爪が食い込むほど拳を握りしめ、近くの電柱に怒りと悔しさをぶつけたことを知る者は誰もいない。
次の暦の到来まで残り三十分。やるべきことを済ませた伯は自室の椅子にもたれかかり整えられた寝具に視線を注いでいた。
考えていたのは知り合い二人の別れ際の言葉。
「向こう、それにあっち、か……」
冷静になって考えれば、夢が別世界の扉だなんて、そんな非科学なことが起こるはずがない。
そもそも人類は二十一世紀の現在でも夢に関する真実に達しておらず、意識のない世界は未だ謎に包まれている。
昨日はたまたま夢の内容を鮮明に記憶し、夢の中で知り合いに会い小説のような非現実的な話を聞かされただけなのではないか。そして式部と花代は伯の空想ごとに付き合っているだけなのでは?
それとも、これから自分はまた眠りの中で自らが望む相手と出会い、意思疎通を交わすのだろうか。
それでも、彼は願った。誰かの役にたちたい、存在を肯定され必要とされる人間になりたいと。
「…………よし」
気合を入れて立ち上がり、消灯後ベッドに身をゆだねる。
暫くは規則的な時の音だけが耳に入った。しかし、睡魔が襲い掛かってくるとともに何も聞こえなくなる。
そして――気付けばハクは人混みの中に立っていた。




