空色の泪
普段と変わりない静かな朝が伯の目覚めを迎えた。
今日は土曜日。授業はあったが三年生以外は午前中だけで終了し、時刻は正午を回っていた。
「……どうするか、なんて聞かれてもなぁ」
食堂で友人と昼食を囲み、それぞれの活動のために別れた伯は行くあてもなくぶらぶらと校内を散策していた。
昨日告げられ衝撃の真実。
知らない方がどれだけ楽だっただろうか。
だが、不思議なことに拒絶感はあまりない。
自分たちは負の魔法の使い手というだけで、悪魔と契約を交わしたわけでも、魂に悪魔がいるわけでもないのだから。
ただ、これをきっかけにせっかく結束していた仲間との絆が断たれてしまうかもしれない。
他者の役に立てなくなるかもしれない。
記憶を失うことで前を向いていた自分が再び立ち止まってしまうかもしれない。
「それに……ハナダ、大丈夫かな……」
あれほど逆上し、動揺し、感情を露わにしている花代をみたことはなかった。
それと対して、今日の彼女は心を失ったように上の空。教師の話もろくに聞かず、誰とも挨拶を交わしていなかった。
そしてもう一人。
急な事態で放置してしまった刈安も伯は心配していた。
昼食時、彼と同じクラスの友人に話を聞けば体調不良で欠席。そのことがさらに伯の懸念させる。
あの暴走は確実に魔塊によるもの。つまり負のマナが影響しているのだ。
伯へ流れ込んで来た刈安の記憶の断面。そしてその中で交わされた〈神〉との契り。
「も、もしかして……神様って--」
その時、どこからか言い争う女子の声を聞いた伯は踵を返し、すぐに階段を駆け上がる。
場所は屋上。わずかに開いた扉の隙間から外の様子を伺えば、ポニーテールの後ろ姿と内巻きの二人がそこにいた。
「--信じてたのにっ。ようやく私の相手をしてくれたって。対等に見てくれたとたと思ってたのにっ……。
結局あなたは私たちを騙して誘い、利用していたに過ぎなかったのね。
友達や仲間なんてのも嘘。
自分の不幸を他人へ撒き散らして巻き添えにしたかっただけなんでしょ!?」
「……ごめんなさい」
「っ、そうやってさっきから謝るだけ。釈明も言い訳もしない。変なことを言って面倒になるのが嫌いだから。
私、知ってるのよ。あなたが他人を寄せつけないのは衝突を避けるため。相手を傷つけてしまうんじゃない。自分が傷つくことを恐れてね。
そうやって自分の殻の中にこもって、本当の気持ちを曝け出そうともしない。だから、他人と上手くいかないのよ。
あなたの魔法が変装なのも同じ。結局は自分の事だけ考えて他人のことはどうでもいいんでしょ。
協力ならともかく利用されるのは私、我慢ならない。
ミスターには悪いけど、私は降りさせてもらうわ。これで私たちの関係も入学当初みたいに白紙の状態に戻る。その方がお互いのため」
「待って」
横切った茜を花代が振り返り引き止める。
否定しようのない非難を浴びて逸らす青の瞳を茜の地面へ向けて、そっと問いかける。
「茜がいなくなったら、彼らはどうなるの?」
「彼ら? 他のメンバーのことを言ってるなら、別に--」
「違う。ヴィジョナリーじゃなくて、使い魔たち。
忠実に従い、共に戦ってきたアカネのためだけの存在。
彼らも見捨てるつもり?」
「……使い魔も負の魔法の力で契約しているんでしょう?
グリジオやノアレスが悪魔、あるいは魔物ってことも考えられる。
そんな危険なものを使役するなんてゴメンよ。それじゃ」
ドアへ向かってくる茜に伯は慌て、急いで廊下へ出ると窓から外を眺めて知らないふりをする。
ガタン、と音が響き茜が降りてくれば、伯は棒読みの見え透いた演技をする。
「あっ茜、ぐ、偶然だねえ。こんなところで会うなんて」
「……ハク、あなた嘘つくの下手すぎでしょ。それに盗み聞きだなんて。男として最低ね、それ」
「あはは……やっぱり気づいてたんだ」
「まったく……ハクは、どうするの?」
ため息の後、背を向けたまま茜は小さく問いかける。
「僕は……わからない。何が正しくて、何が悪いのか。
アカネはやっぱり、辞めるつもり?」
「話を聞いてたのなら、改めて確認することでもないでしょ。
……裏切られるのが一番嫌いなのよ。
ハクも後悔する前に手を引いておくことね」
茜が階段を降りて姿を消すと、伯は再び屋上へ向かった。
ゆっくりとドアノブを回し、空の下へ身体を晒す。背を向ける花代はフェンスの向こう側に広がる海を瞳に映していた。
「……いつもみたいに帰らないの?」
隣へ歩み寄り普段通りに、けれども心配しながら伯は優しく声をかける。
「今日は気分が乗らないから、レッスンは休みにしてもらった。
……ハクこそ、油売ってて大丈夫?」
「僕らの仕事は昨日で終わったから、しばらくは暇なんだ。
体育祭が近づけば雑用とか面倒ごととか押し付けられるんだろうけどね」
「そっか……」
会話が途切れ、部活動の掛け声や楽器の音がわずかに空気を揺らす。
ついさっき茜と衝突し、傷ついた花代に夢の一件を振るのは些か心苦しい。けれども、頭はそのことで一杯だった。
差しさわりのない話題も浮かばず、伯は困り果てる。
「……何も、言わないんだね」
「えっ?」
唐突に言われて伯は顔を隣へ向ける。
黒髪が揺れる横顔は変わらず地平線へ注がれていたが、青く澄んだ瞳は悲し気に暗い影を落としていた。
「ザスピルのこと、ヴィジョナリーのこと。魔法のこと、ミスターのこと。
私は全部知っていた。でも、都合が悪いからって隠していて、秘密にしていて。
でも結局はみんなを騙して、嘘ばかり並べて傷つけてしまって」
「それは……――。
……アルジャンさん、だっけ?
あの男の人も言ってたけど、みんな心のどこかで疑問に思ってても結局は聞かなかった。だからどっちかだけが悪いって決めつけられないよ。
どうも思わなかった、と言えば嘘になるけどさ。少なくとも僕は怒ってないよ」
「そ、っか……」
「ハナダこそ大丈夫?」
「……?」
今度は花代が顔を隣へ向け、伯が視線を逸らして問いかける。
「僕たち中学からの付き合いだけど、あんなに取り乱した姿みたことなかったから。
――あっ、別に理由を聞きたいとかじゃないんだ!
ちょっと気になっただけで、その……無理に問いただすつもりもないし……」
じっと花代は伯をみつめている。
態度の裏側に隠された真実を探るように。
だが、それが伯の単なる興味と心配によるものだと察すれば、安堵し、再度壮大なる自然へ目を向けた。
そして少し間を置いて、口を開く。
「……ミスターは……オルは私にとってかけがえのない唯一の存在なんだ」
ぽつりと零れる想いは、髪をなびかせる風と共に舞い上がった。
そして花代の中で眠る近くて遠い記憶を呼び覚ます。
「……私、家族がいないんだ」
「--? ……えぇ?!」
「驚き過ぎだよ」
伯の焦りとは裏腹に花代は冷静に対応する。
「えっ、ちょっ、ど、どうしたの急にっ?」
「さっきの質問の答え。
昨日の私の態度。その理由をハクは、みんなは知る権利があると思うから聞いて欲しい」
息を飲み、伯が頷けば、花代は浮かび上がる記憶のピースをつなぎ合わせるように話し始める。
――物心ついたころから、周りは敵だらけだった。
誰も花代を相手にしない。気遣ってくれない。
それどころか忌み嫌い、除け者にし、畏怖する。
「嫌われていたんじゃない。
魔女、血塗られた呪いの子、災厄の種って、恐れられていた」
「ど、どうしてそんなことに?」
「……原因は、私の出生と母の最期」
十七年前、音楽を愛する演奏家の女性が後に有名になる俳優の子をはらんだ。
当時まだ二人は芸術大学へ通う学生。だが女性は生命の誕生に歓喜し、我が子を慈しみ、母となる決意をした。
男性は己の夢を優先して責任を放棄し、母子を捨てた。
呆れ返った女性の家族も彼女を見放した。女性と赤子を支えてくれる者などほとんどいなかった。
「でも母は挫けなかった。現実の辛さに負けなかった。
それもひとえに心に強い味方がいてくれたから」
――花代の母親は明晰夢の持ち主で、夢へ落ちては自由に街中を探索し一人未知なる冒険を続けていた。
その旅の途中で中央より派遣され、出会ったのが物質世界へ興味を抱いていたオルとアルジャン。
三人は世界の秘密の遵守を誓い、それぞれの情報を交換しあった。
誰も認知しえない世界で、自分だけの友と語らい刺激ある非現実的な時間を過ごす。
それが彼女の唯一の支えであり、心の拠り所だった。
彼女は周囲の反対を押し切って大学を去り、女の子を出産した。
疲労で眠り、報告すれば最高の魔法で祝福された。
幸せだった。
物質世界で受け入れられずとも、彼女には一時的に逃げる居場所がある。守るべき存在がいる。もう一人ぼっちじゃない。
他人に否定されても、彼女の心は折れない。
すべてを失ってもこの子だけは、と強く誓った。
だが――。
退院を控えた日の午後、病室でその悲劇は幕を上げた。
「うたた寝をする母の隣で大学の友人が果物を剥いていると、突然母が苦しみ始め、起き上がるとナースコールする友人のから果物ナイフを取り上げた。
ナイフの矛先は隣でぐっすり眠っている赤子。母はその子を抱き上げ、反対の手で凶器を振り下ろした」
「っ……」
「駆けつけた看護師が見たのはりんご色に染まった病室の床と、意気消沈して怯える友人。
そして――赤子を抱いて命を絶った私の母。
病院や母の親族は、父に捨てられ悲しみに暮れた母が心中しようと試みたが、安らぎ眠る我が子に罪を感じ、自らの人生だけを終わらせた、との見解で一致してその場を収拾させた」
「ハナダ……」
伯の静止の言葉も聞かず、気分が悪くなる悲しい出来事を花代は感情もない声で淡々と語る。
「これは物質世界で起こった事実。けれど、それはほんの一部の事実に過ぎない。
真相は――夢の世界にあったから」
「?!」
「母がなくなった日は――悪魔たちが侵攻を開始した日。
そして母が眠った僅かな時は――悪魔たちが街を破壊し、命がマナへ回帰した戦争の真っ只中だった」
うたた寝をしたわずかな時間でも彼女はザスピルへたどり着いてしまった。
客人を迎えた光景は、闇に包まれ希望を失った破滅寸前の世界。
負のマナが侵入して内なる感情を肥大させ、彼女の心を蝕んでいく。
そして自らの手で突きつけられる本心。
溢れ落ちてしまった絢爛な調べの世界。
いつも傍で寄り添い手の温もりを共有しあえる生涯のパートナー。
厳しくも応援してくれた家族や学部の仲間。
すべて失ってしまった。すべて捧げてしまった。
永久に続くと信じて疑わなかった日常。二度と戻ってこない彼女だけの人生。
それもこれも全部――名もない、無知で非力なあの子のせい。
「……一度抱いてしまった闇は拭い去ることはできない。
母の秘めたる悲しみは次第に怒りとなって燃え上がり、欲求と執着へ変化した。
そして……その強い想いは、とある悪魔を呼び寄せてしまった」
――憎いかい、苦しいかい?
犠牲にできないかい? 背負いきれないかい?
だったら、すべて壊してしまえばいい。
手遅れにならないうちに。
すべてを奪ったその子からすべてを取り戻すんだ。
大丈夫、誰も貴方を責めたりしない。
むしろ賢明な判断をしたと褒められるだろうよ。
小さな勇気が貴方に力を与え、夢を現にしてくれる。
さあ、私を受け入れて、願いを叶えるんだ――。
「そ、それってつまり……悪魔が起こしたってこと……?」
「うん……。
母の弱みに付け込んだ悪魔が肉体を人形のように操って起こした悲劇。でもわずかに残っていた母の意識が抵抗し、私の命を守って悪魔をザスピルへ強制送還した。
そして悪魔は――待ち構えていたオルに力もろとも奪われた。その先はアルジャンが話した通り」
「ハナダはどこでその記憶を……?」
「追憶の館--客人の記憶を呼び覚まし、再現するあの空間で。小学生の時に体験したよ」
「……」
言葉が見つからなかった。
あまりにも悲惨な花代の運命。だが母の死と自分の境遇に悩む様子も必死に耐える苦しさもない。
彼女にとってそれは過去に起こった単なる出来事に過ぎず、手にしたこともない別の生活。
憧れはあっても執着はなく、故に平然とした態度を貫いていた。
同情などいらない。そう思える他の場所が花代にはあったのだから。
「残された私は親戚や遠縁を転々とした後、音楽の才能を見出されて最終的に今の家、音楽を愛する老夫婦の養子として引き取られた。
呪われた子と恐れられ、相手にすらされない無意味な毎日も、音楽家の卵として厳しいレッスンに励む毎日も私にはどうでもよかった。
どんなに現実が辛くても眠ればオルに会える。それだけで十分だった」
「……ハナダはいつから向こうの世界を知ってたの?」
「どうかな……私も明晰夢を受け継いで眠りの世界が日常の一部だと信じて疑わなかったから、明確には覚えていない。
けれど、夜が来て目を閉じればオルの執務室にいて、仕事の手を止めて私の話を聞いてくれて、遊びたいと言えばアルとラルカの元へ連れて行ってくれた」
「あのミスターがそんなことを……ちょっと想像できないなあ」
「私もどうしてそこまでやってくれるのか不思議なんだ。何度聞いても答えてくれなくて。
関係のない母を巻き込んでしまったことの罪滅ぼし、だと考えてる。
でも私にとってオルはそれ以上の存在。オルがいなければ今の私はいない。きっと感情のない周りに利用されるだけの人形にに成り果てていたと思う。
だからオルの苦しみを少しでも減らすため、オルの役に立つために私はヴィジョナリーになった。悪魔の力を受け入れたんだ……!」
フェンスに手をかけ思いのままに花代は力を込める。自分の意志をぶつけるように強く、深く。
「すべてはオルのため。勉強も音楽も、魔法も戦闘も、生きることすら彼のためにやってきた。
ハクやツグサ、アカネ、シキブ先輩を紹介したのも、契約の詳細を話さないよう勧めたのも私。
私がみんなを騙し、利用してきた。真実を知って罵られても、裏切り者だと恨まれても構わない。
でもっ、オルだけはっ……!」
唇を噛み締め、花代の頬を一筋の涙が流れる。
初めてだった。彼女が本音を打ち明けるのは。
どちらの世界でも孤高で一人を貫く意志はダイアモンドのようで。強く、堅固、けれども一歩間違えれば粉々に砕けてしまう脆さを隠していた。
きっと花代は一人でもミスターを救出しに行くだろう。彼女の実力と魔法を鑑みれば不可能ではない。けれども、その先にあるのは決して幸福な未来ではない。
平凡な家庭に生まれ、平和で何一つ不自由のない生活を送ってきた伯。そんな自分に彼女の痛みを、辛さを真に理解することは到底できない。
だからこそ――伯の答えは決まっていた。
「――僕も手伝うよ」
「――っ……!」
「僕も一緒にミスターを救い出す」
「で、でも……」
眉を寄せ動揺する花代を伯は真っ直ぐみつめる。
「さっきも言ったよね、怒ってないって。
騙されていたとしても、僕はヴィジョナリーの一員になってよかったと思ってるし、向こうの世界で過ごした時間と記憶を失いたくない。
それに、ハナダに恩返しがしたいんだ」
「恩返し……? 私、ハクに感謝されるようなことしたかな……?」
「あっ、いや、ハナダが何かしたとかじゃなくて、僕が一方的に恩を感じているというか……」
「?」
伯が照れ隠しをすれば、花代は首を傾げますます眉を寄せる。
青い瞳にはもう涙は溜まっていなかった。
「そ、それはともかく! 勇気も度胸もないろくでなしの僕でよければ協力させてよ。
困ってる人がいれば手を差し伸べる。それが知り合いならなおさらさ。だって、それが仲間じゃないか。
助けられてばっかりだったから、今度は僕がハナダを助ける。
その代わり、とかじゃないんだけど、さ……。
ミスターを救出して何もかも一息ついたら、教えてほしいんだ。どうしてこんな僕を仲間に引き入れてくれたのか」
「……うん、わかった。
――ありがとう」
つたった悲しみの軌跡を拭った花代は、ようやく頬を緩ませいつもの調子で微笑みかけた。




