第11部:安眠妨害許さんマジ許さん
「っ……」
そこに――私の目の前には、先輩は、倒れていなかった。
ぜぇぜぇと気持ち悪そうにしながら、私の肩を借りて立っていて。
服が乱れてはいるけれど傷一つなく、頬も赤く腫れてはいなくて。
弱々しかったけれど、軽薄な笑みを口元に、目元に刻んでいて。
やっぱり、酸っぱい臭いのする息を吐いていて。
私と先輩は、立ち止まっていた。というより、先輩が足を動かさないため、私も足を止めざるをえなかった。
「すまないな、嵯峨根」
「何が、ですか?」
俯いていた先輩が、私を見る。
「変なことを訊いてしまったかな、と思ってね。酔っぱらいの戯言とはいえ、地雷を踏んでしまうのはいただけないものだから」
「……?」
意味も分からず首を傾げる。
何だろう?
たしかに先輩の言葉はひたすらに不快だったけれども、対する私の反応は大して強くも無いモノで、気を遣わせる要素など無かったはずだ。
「……あぁ、自分で気づいていないのか」
何かを納得したように、先輩は言った。
「え?」
「君は苛立っている時、文字通り〝表情が消える〟んだ。怒りも悲しみもしなければ、悔し紛れに笑うことすらしない」
「……」
「それがただ感情を堪えているだけなのか、どこかに現実逃避しているだけなのか、私は知らないし、知ろうとも思わない」
だけど、と。
「私の何気ない言葉が君を傷つけてしまったことは事実だろうから。だから、言うんだ――すまなかった、嵯峨根」
「……はぁ」
いつの間にか、感情の高ぶりが嘘のように消え去っていた私には、そうした言葉の羅列がいかにも芝居がかった、大げさで、滑稽なモノに思えた。
目の前の女性は、私の踏み込んではいない部分に踏み込んでしまったことを謝罪している。
それは、分かる。
分かる、けれども。
私にとってはそういった領域に入ってこようと、ただの日常の一部として済まされるべきであって、笑って流すべきであって、引きずるようなものでないと思っていたから、そうした謝罪には慣れてはいなかった。
ただ、冗談だと、ごめんごめんと、適当に流していれば、互いに傷つかずにすむのだ。
少しばかりの妥協や我慢でそれが成されるのなら、私は喜んで受け入れるだろう。
だから、
「……別に、構わないですよ」
そう、言って。
「私の態度が固すぎたのが先輩のそれを招いたのですから、一方的に責められるようなことじゃないと思います。だから、そんなに気負わなくてもいいですよ」
口先だけの、薄っぺらい言葉で誤魔化して。
「……そっか」
先輩の、そんな短い言葉を皮切りに、どちらからともなく私たちは再び歩き始めた。
それからしばらくの間、私たちは無言だった。
酔いがまだ残っているのか、ぜぇぜぇと苦しげな先輩の呼吸音だけが隣から聞こえてきて、それがやけに大きく響いていた。
昔はよく、この道を歩いたものだった。
かつての先輩は頻繁に私をお酒に誘い、弱い私より早く潰れるものだから酔う暇もなく、こうして肩を貸して一緒に帰り道を辿ったことなんて数えきれないほど。
懐かしい、と思う。
時の変化に応じない存在なんて無くて、ほんの三年で、ここまで関係は変わってしまう。
想い合って、別れて。
そこから先、どうなるかは人それぞれだということは分かっている。
私はそれを断ち切ることができて、先輩はおそらく、できなかったのだろう。
断ち切れず、再び愛を求める以外に空いた穴を埋める術を見つけられずにいたのだろう。
「…………」
先輩が住むマンションの前までたどり着くと、ここでいいよ、と先輩は言った。
「大丈夫ですか?」
「問題ない。朝までにアルコールを抜いて仕事に切り替えるくらい、もう慣れているからね」
「慣れるくらい失敗を繰り返したってことですよね?」
「……それを言われると、頭が痛い」
困ったように笑う先輩は、しかし楽しげでもあって、ぷらぷらと手を振りながらエントランスを抜け、奥へと消えた。
「……はぁ」
それを見送ると、私はマンションに背を向けて歩きだした。
足取りは早く、目は辺りへの警戒を絶やさない。
たまに痴漢注意だのなんだのと女子供に呼びかける看板が見えるが、私なんかを狙うようなキミョウキテレツな脳ミソの持ち主はそうはいまい。とは思いつつもやはり怖いので自然と帰りは急ぐ羽目になる。
「…………」
歩く。
道は大通りではなく住宅街の中の小さな道。
急ぎ足で、歩く。
辺りは静かだ。
動くモノは何もなく、民家に喧騒の音は感じられない。
たまに灯る部屋の明かりは受験勉強か、はたまたネット漬けになったなれの果てか。
歩く。歩く。
ただ、ひたすらに私は歩いた。
こうした道では考え事が必然であり、それを避けるためでもあった。
何も考えないよう、考えたとしても短く済むように。
集中する事象が無い場合、私はロクでもないことを想像してしまう。
例えばそれはどうでもいい小噺であったり、幼少時の怪談話であったり。
そして。
つい数分前までの会話の反芻であったり。
『君は、何を恐れているんだい?』
体内に残留するアルコールが僅かな精神の変化をも引き伸ばし、引き伸ばし、まるで薄っぺらであってもある面から見れば巨大であろうと言わんばかりに私にそれを突き付けてくる。
『何故、君は愛を恐れる?』『いつだって寄り添うのは私で『君は『私を』『愛は『傷つけ』』停滞した『進展のない『求めようとは』』『受け入れる』『しなかった』
言葉が延々と脳髄で反響し木霊し言葉そのものが言霊とまるでそれそのものが生き物であるみたいにうねって纏わりつき繰り返し繰り返し私に囁きかけてくる狂っているもしくは狂いかけているその一歩手前なのだ私は正常ではない正常であるはずがないこんなことが正常とよんでいいはずがない私がそれを認められるはずがないのだから。
『すまない』』』『君は自ら『愛は『愛を『愛して『求めて『何気ない言葉が』』』『だから『君『『『分からない『分からないよ』『『『もう一度『だから『』』
最悪な気分だった。
自分だけでは抜けられそうになかった。
これは泥、それも悪臭を放つ真夏の側溝にたまったドブみたいなやつだ。
底に溜まって腐ってどうしようもないままにその辺の雑多な感情が餌にしてしまった記憶。
その、産物。
醜悪の一言で切って捨ててしまえる。
「――よし」
おもむろに呟き、私はバッグからスライド式の携帯電話を引っ張り出した。
カチカチと操作、電話帳から探り出したのは、見慣れた名前。
見つけるなり、真夜中というのに私は躊躇もなく通話ボタンを押した。
プルルル、プルルルと、電子音が耳を叩き、
『……なんだ?』
永遠にも感じられた一分をねばっていると、不機嫌そうな男声が電子にとってかわった、
寝ているところだったのか、寝ぼけているように気の抜けたそれに、
「私だ」
『知ってるよ』
「こんばんは、冴木」
『こんばんは、クソ野郎』
「女を相手に野郎とは何だ、野郎とは」
『クソなのはいいのかよ』
「生憎、昔からそれは自覚しているからな」
『そうかい。で、用件は?』
雑談を相手にする余裕もないらしい。全くもって、眠気とは恐ろしいものだと思う。
「泊めてくれ」
『……は?』
要望通りに用件を口にすると、一瞬間の抜けたような返事が返ってきて、
『すまん、もう一度言ってくれ』
「泊めてくれ」
『ふざけるな』
「一人で寝る気分じゃないんだ」
『だからって俺の安眠妨害していい理由にはならんぞ!?』
いつになくいら立ちが滲んだ声。割と本気でキレているところが冷静なこちらからしてみれば笑いを誘われる。
『恋人ごっこは他の暇人をあたれ。そして寝ろ』
ブツ、と通信が切断される音。
「……おお」
一方的に怒られ、切られてしまった。
それは完敗を意味するが、しかし同時に、
「楽しいな」
快楽とは違う、湧き出るような高揚感。
これまでのやりとりだけで、それが生まれてしまった。
冴木は、こうして自分には悪ふざけができる悪友がいるのだということに気づかせてくれる。
愛が素晴らしい? 恋は生きがいだ?
ふざけるな。
大して素晴らしくもないし、生きがいは与えても楽しみにもならない。
こうして悪友という間柄でふざけているほうが、ずっと楽しいじゃないか。
「……ははっ」
小さく笑い、携帯電話をバッグに押し込むと、今度は駆け足で道をたどり始めた。
今度は現実逃避じゃない。思考の短縮でもない。
春から初夏へと移る中、まだ肌寒い過程。
その中でもなお、体は暖かくて。
それを実感するために、私は足を早めた。




