08.お嬢様と裁縫
その日の朝。
いつものように城へ向かった俺は、お嬢様の部屋の前で足を止めた。
扉の向こうから、何やら騒がしい音が聞こえてくる。
「えっと……こっちを通して……」
「お嬢様、そちらではありません」
「え?」
「そちらは裏側でございます」
「……そうでした」
嫌な予感がした。
俺が扉を開ける。
「おはようございます、お嬢様」
「あっ、勇者様!」
お嬢様が振り返る。
その手には、糸。
机の上には布。
「……何をしているんですか?」
「見て分かりませんか?」
「分かりません」
「もう!」
お嬢様が頬を膨らませる。
「服を作っているんです」
「服?」
「はい!」
お嬢様は得意げに布を持ち上げた。
「勇者様のために」
「…………俺の?」
思わず聞き返した。
「そうです」
胸の奥が、どくんと鳴った。
たった一言。
それだけなのに。
昨日までとは違う意味で、その言葉が心に響いた。
俺のために。
その響きが、妙に嬉しい。
「どうして急に?」
「いつも勇者様には色々してもらっているでしょう?」
「そうですね」
「だから、私も何かお返しをしたかったんです」
お嬢様はそう言って、少し照れたように笑った。
「私、勇者様に何もしてあげられていない気がしますから」
俺は何も言えなかった。
そんなことはない。
俺は毎日、お嬢様からたくさんのものをもらっている。
笑顔とか。
一緒にいる時間とか。
何でもない会話とか。
そして――。
俺自身が、ここに来たいと思える理由まで。
だけど、それを口にすることはできなかった。
「……十分ですよ」
「え?」
「お嬢様が楽しそうにしてくれているだけで、俺は嬉しいです」
言ってから、しまったと思った。
少し踏み込みすぎたかもしれない。
お嬢様がじっと俺を見る。
「……勇者様って」
「はい?」
「時々、ずるいことを言いますよね」
「ずるい?」
「そんなことを言われたら、もっと頑張りたくなってしまいます」
そう言って、お嬢様は針を持ち直した。
俺は小さく笑った。
――本当に、敵わない。
◇
「では、ここを縫います」
「はい」
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
「分かっています」
お嬢様が布を押さえ、慎重に針を動かしていく。
最初は順調だった。
少なくとも、本人はそう思っていたらしい。
「……あれ?」
「どうしました?」
「糸がありません」
「……」
俺は机の下を見る。
糸が落ちている。
お嬢様は気づいていない。
「そこにありますよ」
「え?」
「右手のすぐ横です」
「あ、本当です」
糸を拾い上げる。
そして再び縫い始める。
「……あれ?」
「今度は何ですか?」
「針がありません」
「……」
今度は床に落ちていた。
「お嬢様」
「はい」
「裁縫、苦手ですよね?」
「苦手ではありません」
「……」
「まだ慣れていないだけです」
「なるほど」
俺は笑いをこらえた。
その様子を見て、お嬢様が少しだけ睨む。
「笑いましたね?」
「笑ってません」
「笑いました」
「……すみません」
「もう」
怒っているようで、どこか楽しそうだった。
俺も楽しかった。
ただ、それ以上に。
お嬢様が俺のために一生懸命になっていることが、嬉しかった。
魔物を倒したときとは違う。
人々から感謝されたときとも違う。
もっと小さくて。
もっと温かい。
胸の奥に、静かに残るような嬉しさだった。
「勇者様」
「はい?」
「これ、似合うと思いますか?」
お嬢様が布を俺の身体に当てる。
「……似合うと思います」
「まだ完成してませんよ?」
「それでもです」
「ふふっ」
お嬢様が笑った。
その距離が近い。
以前なら何も思わなかったかもしれない。
けれど今は違う。
心臓が妙にうるさい。
顔が熱くなる。
俺は慌てて視線を逸らした。
「勇者様?」
「何でもありません」
危なかった。
好きだと自覚してしまうと、今まで普通だったことまで普通ではなくなる。
ただ隣にいるだけで意識してしまう。
目が合うだけで嬉しくなる。
触れそうになるだけで、妙に緊張する。
――こんな状態で、これからもずっと護衛なんてできるのだろうか。
少しだけ不安になった。
でも。
それ以上に。
この時間がずっと続けばいいと思ってしまった。
◇
「……できました!」
しばらくして、お嬢様が声を上げた。
俺も布を見る。
「おお」
服の形が、少しずつ見えてきている。
まだ完成ではない。
袖の部分も途中だ。
裾も整っていない。
細かなところには、まだ手を入れなければならない。
それでも。
「すごいですね」
「本当ですか?」
「はい」
俺は素直に答えた。
「お嬢様が作ったんですよね?」
「はい!」
「じゃあ、大切にします」
その瞬間、お嬢様の表情が柔らかくなった。
「……よかった」
小さな声だった。
「本当は、もっと早く完成させたかったんです」
「十分ですよ」
「でも、勇者様に似合うものを作りたくて……」
「……」
また胸が熱くなる。
俺は誤魔化すように笑った




