07.料理をする
朝から、嫌な予感がしていた。
目を覚ました瞬間から、なぜか落ち着かない。
別に何か予定があるわけじゃない。
魔物が出たわけでもなければ、国境付近で事件が起きたわけでもない。
今日もいつも通り、お嬢様の護衛をする。
それだけのはずだった。
「……なのに、なんでこんなにそわそわするんだ」
ベッドの上で一人呟いて、俺は自分で苦笑した。
理由なんて、分かっている。
昨日、自覚してしまったからだ。
――俺は、お嬢様が好きだ。
その事実を認めてからというもの、どうにも調子がおかしい。
顔を合わせれば嬉しい。
声を聞けば安心する。
笑っているところを見るだけで、こちらまで楽しくなる。
そして何より。
今日も会えると思うだけで、朝から少しだけ心が弾んでしまう。
「……勇者がこんなことでどうする」
自分に言い聞かせる。
俺は勇者だ。
国を守るために剣を振るい、魔物を倒してきた。
そんな俺が、たった一人の女の子のことで心を乱されていていいのか。
――いや。
いいに決まっている。
そう思った瞬間、また苦笑してしまった。
結局、俺はもう負けているらしい。
魔王にも、巨大な魔物にも負けなかった俺が。
お嬢様には、簡単に振り回されている。
そんなことを考えながら城へ向かうと、いつもの場所にお嬢様がいた。
「あっ、勇者様!」
俺を見つけた瞬間、ぱっと顔を明るくする。
その笑顔を見ただけで、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「おはようございます」
「おはようございます、お嬢様」
「今日はお願いがあるんです」
「お願い?」
嫌な予感がした。
この城で、お嬢様の「お願い」という言葉ほど信用できないものはない。
以前は市場に行きたいと言われ、その結果、俺は大量の荷物を持つことになった。
その前はペットを拾い、城の中を走り回ることになった。
そして今日は――。
「私、料理をしてみたいんです」
「……料理?」
「はい!」
満面の笑顔。
俺は一瞬、言葉を失った。
「料理って……お嬢様が?」
「そうです。私だって、料理くらいできます」
「……本当に?」
「どうして疑うんですか!」
「いや……」
思わずお嬢様の手を見る。
綺麗な手だった。
剣を握ったこともなければ、鍬を握ったこともない。
当然、包丁を握ったところも見たことがない。
「できるんですか?」
「できます!」
即答だった。
その自信がどこから来るのか、俺には分からない。
「では、何を作るんです?」
「クッキーです!」
「……クッキー」
それなら、まあ。
料理の中では比較的安全な部類だろう。
「分かりました。俺も手伝います」
「本当ですか?」
「もちろん」
俺は笑った。
昨日までなら、単純に「護衛だから」と考えていたかもしれない。
でも今は違う。
お嬢様と一緒に何かをする。
それだけで、俺は嬉しい。
だから――。
「俺も楽しみです」
そう言った。
お嬢様は少し驚いたように目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「……私もです」
その一言だけで、また胸が熱くなる。
どうやら今日は、朝から心臓に悪い一日になりそうだった。
◇
厨房に入ると、料理人たちが一斉にこちらを振り返った。
「お、お嬢様……?」
「今日は私が料理をします!」
「…………」
厨房が静まり返った。
料理人たちが俺を見る。
俺も料理人たちを見る。
誰も何も言わない。
だが、全員の目が同じことを語っていた。
――大丈夫なのか?
「大丈夫ですよ」
俺が言うと、料理人の一人が苦笑した。
「勇者様がそう仰るなら……」
信用されていない気がする。
だが、俺も少しだけ不安だった。
「それでは始めましょう!」
お嬢様が腕まくりをする。
やる気だけは十分だった。
「まずは材料を混ぜます」
「はい!」
小麦粉。
砂糖。
卵。
バター。
用意された材料を前に、お嬢様は真剣な顔をしている。
その横顔は妙に可愛らしくて、俺は思わず見入ってしまった。
「……勇者様?」
「え?」
「どうかしましたか?」
「いや、何でもありません」
危ない。
顔に出ていたかもしれない。
「では、混ぜましょう」
「はい!」
お嬢様がボウルを抱える。
そして――。
「……あれ?」
混ざらない。
小麦粉とバターが、なぜか別々の場所に存在している。
「もっと強く混ぜるんですよ」
「こうですか?」
「そうです」
ぐるぐる。
ぐるぐる。
お嬢様は一生懸命にかき混ぜる。
その姿を見ていると、自然と笑みがこぼれた。
剣を握って魔物と戦っているときとは、まるで違う。
もちろん、俺はお嬢様が剣を握る必要なんてないと思っている。
こうして笑って、失敗して、それでも楽しそうにしている。
それだけでいい。
「できました!」
お嬢様が胸を張った。
「見てください!」
ボウルの中には、どう見ても混ざりきっていない材料が残っている。
「……できましたね」
「でしょう?」
「はい」
俺は笑った。
「じゃあ、次は形を作りましょう」
「任せてください!」
その言葉を聞いた瞬間。
俺は少しだけ嫌な予感がした。
そして、その予感は見事に的中した。
◇
「勇者様!」
「はい」
「これ、どうでしょう?」
テーブルの上に並んだクッキー。
――の、はずだった。
丸いもの。
四角いもの。
妙に細長いもの。
なぜか巨大なもの。
そして、どうしてそうなったのか分からないほど複雑な形のもの。
「……個性的ですね」
「でしょう?」
お嬢様は満足そうだった。
「全部、私が作ったんですよ」
「それはすごいです」
「どれが一番好きですか?」
「え?」
お嬢様が指差す。
一番端にある、ひどく歪んだクッキー。
「これです」
「……これ?」
「はい。勇者様にあげるために作りました」
一瞬、何も考えられなくなった。
俺のため。
その言葉が頭の中で何度も響く。
「……ありがとうございます」
声が少しだけ震えた。
「絶対に食べます」
「絶対ですよ?」
「もちろんです」
お嬢様が嬉しそうに笑った。
それだけで、さっきまでの不安なんて全部どうでもよくなった。
ところが。
「では、焼きましょう!」
「はい」
天板にクッキーを並べ、オーブンへ入れる。
あとは待つだけ。
俺はそう思っていた。
――数分後。
「……なんか、煙が出てません?」
「え?」
お嬢様が振り返る。
オーブンから、白い煙が立ち上っている。
「…………」
「…………」
二人で見つめる。
「勇者様」
「はい」
「これは……?」
「俺にも分かりません」
厨房の奥から料理人が飛んできた。
「お嬢様! オーブンの温度が高すぎます!」
「えっ?」
「設定を間違えたようで……!」
「…………」
お嬢様が俺を見る。
俺もお嬢様を見る。
「……失敗、ですか?」
「まだ分かりません」
俺はオーブンを確認する。
そして蓋を開けた。
――黒い。
クッキーが、見事に黒い。
「…………」
「…………」
お嬢様の肩が、少し落ちた。
「……ごめんなさい」
小さな声だった。
さっきまであれほど楽しそうだったのに。
その表情が曇った瞬間、胸が締め付けられた。
「お嬢様」
「せっかく勇者様に食べてもらおうと思ったのに……」
「大丈夫ですよ」
「でも……」
「料理なんて、失敗して当たり前です」
「……そうなんですか?」
「俺も料理なんてほとんどしたことありません」
嘘ではない。
必要に迫られれば食べられるものは作れる。
だが、料理を趣味にしたことなど一度もない。
「それに」
俺は黒くなったクッキーを一枚手に取った。
「これは俺のために作ってくれたんでしょう?」
「……はい」
「だったら、十分嬉しいです」
お嬢様が顔を上げる。
「食べてもいいですか?」
「え……」
「約束しましたから」
俺は一口かじった。
「…………」
苦い。
とても苦い。
人生で食べたものの中でも、かなり苦い。
だが。
「……美味しいです」
「本当ですか?」
「はい」
お嬢様の目が輝く。
「本当に?」
「本当です」
俺はもう一口食べた。
やっぱり苦い。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ――。
嬉しかった。
俺のために作ってくれたものだから。
「……よかった」
お嬢様がほっとしたように笑う。
その笑顔を見て、俺は思った。
ああ。
やっぱり俺は、この人が好きなんだ。
昨日よりも、はっきりと。
自覚したばかりの気持ちが、もう隠しようもないほど大きくなっている。
でも。
俺はそれを口にはしない。
言ってしまえば、今の関係が変わってしまうかもしれない。
お嬢様と勇者。
それだけで十分だ。
俺はそう自分に言い聞かせた。
だから今日も――。
「お嬢様、片付けましょうか」
「……はい!」
床にこぼれた小麦粉。
散らばった材料。
焦げたクッキー。
汚れたテーブル。
厨房は、なかなかの惨状だった。
「勇者様、手伝ってくださいね」
「もちろんです」
俺は布巾を手に取った。
料理人たちが苦笑している。
「勇者様……本当にそれでいいんですか?」
「何がです?」
「勇者様が厨房の掃除までされるなんて」
俺は少し考えてから答えた。
「いいんですよ」
そして、お嬢様を見る。
楽しそうに片付けをしている。
その姿を見て、俺は笑った。
「俺は勇者ですから」
それはもう、何でもできる魔法の言葉になっていた。
魔物を倒すのも。
荷物を持つのも。
ペットを探すのも。
紅茶をこぼしたテーブルを拭くのも。
そして――。
好きな人の失敗を、一緒に笑うのも。
全部、俺にとっては「勇者の仕事」なのだ。
少なくとも、今はそういうことにしておこう。
「勇者様!」
「はい?」
「次は何を作りましょうか?」
「……次もあるんですか?」
「もちろんです!」
お嬢様は楽しそうに笑った。
俺は天井を見上げた。
どうやら、平和な国には。
魔王よりも恐ろしい敵がいるらしい。
――お嬢様の料理だ。
それでも。
「……分かりました。次も手伝います」
俺は笑って答えた。
その笑顔を見られるなら。
多少の苦労くらい、どうってことはない。
そう思える自分が、少しだけ可笑しかった。




