06.恋心を自覚する
最近、俺は少しおかしい。
そう思うようになったのは、いつからだっただろう。
「勇者様、おはようございます」
「おはようございます、お嬢様」
朝。
お嬢様の姿を見る。
それだけで、なんとなく気分がいい。
「今日はいい天気ですね」
「そうですね」
「お庭を散歩しませんか?」
「もちろんです」
お嬢様が笑う。
俺も笑う。
それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ軽くなる。
以前の俺なら、朝起きて最初に考えることは今日の任務だった。
どこへ行くのか。
何を倒すのか。
何を準備するのか。
それが普通だった。
今は違う。
目を覚ますと、まず思う。
――今日はお嬢様と何をしよう。
そのことに気づいたとき、俺は少しだけ戸惑った。
「勇者様?」
「……はい?」
「どうしました?」
「いえ。なんでもありません」
危ない。
考え事をしているところを見られるところだった。
俺はお嬢様の隣を歩く。
庭には朝露が残っている。
花壇には色とりどりの花が咲いていた。
そして、その足元を――。
「きゅっ」
ポンが走っている。
「ポン、そんなに急いだら転びますよ」
「きゅ!」
元気に鳴いて、さらに走っていく。
「ふふっ。元気ですね」
「すっかり慣れましたね」
「はい」
お嬢様がポンを抱き上げる。
ポンは嬉しそうにお嬢様の腕の中で丸くなる。
「かわいい……」
「お嬢様も、ずいぶん気に入っていますね」
「もちろんです」
お嬢様がポンを撫でる。
その横顔を見ていた。
柔らかな朝日。
風に揺れる髪。
楽しそうな笑顔。
――綺麗だな。
そう思った。
その瞬間。
俺は足を止めた。
「……」
今、俺は何を考えた?
「勇者様?」
「……なんでもありません」
「またぼーっとしていますよ」
「すみません」
俺は歩き出す。
お嬢様の横顔を見ないようにした。
なぜだろう。
妙に心臓が速い。
◇
その日の午後。
俺は一人で剣の手入れをしていた。
久しぶりに剣を手にする。
刃を布で丁寧に拭く。
傷はほとんどない。
この剣は、俺が勇者になったときからずっと使っている。
何匹もの魔物を倒してきた。
何度も俺の命を救ってくれた。
今でも、俺にとって大切なものだ。
なのに。
「最近、使ってないな」
思わず呟く。
当然だ。
平和なのだから。
剣を振る必要がない。
それは喜ぶべきことだ。
そう思っているのに。
ほんの少しだけ。
寂しい。
そんなことを考えていると――。
「勇者様」
「うわっ!」
突然、後ろから声がした。
慌てて振り返る。
お嬢様が立っていた。
「驚かせてしまいましたか?」
「……はい。少し」
「すみません」
お嬢様が笑う。
「何をしていたんですか?」
「剣の手入れです」
「そういえば、勇者様が剣を持っているところを、ちゃんと見たことがありません」
「そうですか?」
「はい」
お嬢様が興味深そうに剣を見る。
「触ってもいいですか?」
「危ないので、気をつけてください」
「はい」
俺は鞘に収めた状態で、お嬢様へ渡した。
「重い……」
「そうでしょうね」
「これをいつも持っているんですか?」
「昔は」
「大変だったんですね」
「まあ、慣れますよ」
お嬢様は剣を眺めている。
その表情は、いつもより少し真剣だった。
「勇者様」
「はい」
「怖くなかったんですか?」
「何がです?」
「魔物と戦うことです」
俺は少し考えた。
「……怖かったですよ」
「え?」
意外だったのか、お嬢様が目を丸くする。
「俺だって人間ですから」
「そうなんですね」
「死ぬのは怖いです。痛いのも嫌です」
「では、どうして戦えたんですか?」
その質問に、俺はしばらく答えられなかった。
昔のことを思い出す。
初めて魔物と戦った日。
震える手で剣を握っていた。
逃げたかった。
それでも、後ろにいる人たちを見た。
泣いている子供。
怯えている老人。
家族を守ろうとしている父親。
だから剣を握った。
「……守りたい人がいたからです」
口にした瞬間。
自分でも驚いた。
昔の記憶だった。
何度も思い出してきたはずなのに。
今の俺の頭に浮かんだのは――。
お嬢様だった。
俺は思わず、お嬢様を見る。
彼女は俺を見つめていた。
「素敵ですね」
「……そうですか?」
「はい」
お嬢様は微笑んだ。
「勇者様は、やっぱり勇者様ですね」
胸の奥が熱くなる。
嬉しい。
そう思った。
でも。
それだけじゃない。
もっと別の感情が混ざっている。
俺は、その正体を考えた。
そして――。
一つの答えが浮かんだ。
いや。
浮かんでしまった。
「……俺」
「はい?」
「……」
言えるわけがない。
俺は目を逸らした。
「なんでもありません」
◇
その夜。
俺はなかなか眠れなかった。
ベッドに横になりながら、天井を見る。
「……好きなのか?」
誰もいない部屋で呟く。
答える人はいない。
だから、自分で考える。
お嬢様と一緒にいると嬉しい。
笑っていると嬉しい。
悲しそうにしていると心配になる。
危険な目に遭いそうになると、いても立ってもいられない。
明日会えると思うと、少し楽しみになる。
そして――。
他の誰かと一緒にいると、少し嫌な気持ちになる。
ここまで考えて。
俺は大きく息を吐いた。
「……好きだな」
認めてしまうと、不思議だった。
胸が苦しいような。
嬉しいような。
少し怖いような。
いろいろな感情が一度に押し寄せてくる。
これまで、俺は戦うことばかり考えていた。
魔物なら倒せばいい。
敵なら斬ればいい。
危険なら排除すればいい。
そんなふうに、物事を単純に考えて生きてきた。
でも。
恋は違う。
剣では解決できない。
強さも意味がない。
国で一番強い勇者でも――。
好きな人の前では、ただの一人の男だった。
「……どうすればいいんだ」
思わず笑ってしまう。
ドラゴンより難しい。
魔王より強敵かもしれない。
俺は天井を見ながら、しばらく考えた。
告白する?
いや。
無理だ。
お嬢様は国王の一人娘だ。
俺はただの勇者。
身分が違う。
それに。
今の関係を壊したくない。
もし気持ちを伝えて。
もし困らせてしまったら。
もし、今のように笑ってくれなくなったら。
それが一番怖かった。
「……このままでいい」
俺は自分に言い聞かせる。
「俺はお嬢様の勇者だ」
それでいい。
お嬢様が笑っていられるなら。
そばにいられるなら。
それだけでいい。
そう思うことにした。
――でも。
心の奥底では、もう気づいていた。
俺が欲しいのは、「勇者としてお嬢様のそばにいること」だけではない。
勇者でなくても。
誰かに命令されたわけでもなく。
仕事でなくても。
ただ、お嬢様の隣にいたい。
その気持ちだけは、どうしても消せなかった。
◇
翌朝。
「勇者様、おはようございます!」
お嬢様が笑顔で俺を迎えてくれた。
「おはようございます」
「今日もよろしくお願いしますね」
「はい」
俺は笑った。
昨日までとは、少しだけ違う気持ちで。
お嬢様を見る。
好きだ。
そう思う。
けれど、その気持ちを胸の奥へしまう。
今はまだ。
俺はこの人の勇者でいればいい。
それだけで十分だ。
「勇者様?」
「はい?」
「どうしてそんなに嬉しそうなんですか?」
「……そう見えますか?」
「はい」
お嬢様が不思議そうに首を傾げる。
俺は少しだけ笑った。
「今日も平和だからですよ」
「そうですね」
お嬢様も笑う。
その笑顔を見ながら、俺は思った。
――平和でよかった。
この時間が、ずっと続けばいい。
魔物なんていらない。
戦いなんていらない。
冒険だって必要ない。
俺は勇者だけど。
もう、冒険をしなくてもいい。
お嬢様のそばにいられるのなら。
この穏やかな日常を守れれば、それでいい。
そのときの俺は、本気でそう思っていた。
――この平穏が、いつか自分の手の届かない場所へ奪われる日が来るなんて。
まだ、知る由もなかった。




