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冒険しない勇者  作者: 和泉きよ


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04.市場へ行く

「勇者様」


「はい」


「お願いがあります」


 朝食を終えたばかりの俺の前で、お嬢様が両手を胸の前で組んだ。


 嫌な予感がした。


 なぜだろう。


 この人がこういう顔をするときは、大抵ろくなことが起きない。


「……なんでしょう?」


「街へ行きたいです」


「街?」


「はい」


 お嬢様は満面の笑みを浮かべた。


「王都の街へ」


 俺は黙った。


 王都の街。


 もちろん、危険な場所ではない。


 国内でもっとも治安が良い地域の一つだ。


 俺が以前、魔物を討伐したおかげで街道周辺の危険もほとんどなくなっている。


 だから、危険かどうかで言えば――。


「……陛下の許可は?」


「まだです」


「まだ?」


「今からお願いしようと思っています」


「俺に?」


「はい」


 やっぱりそういうことか。


 俺は小さく息を吐いた。


「お嬢様」


「はい」


「王族が護衛もつけずに街へ行くのは危険です」


「ですから勇者様がいるじゃないですか」


「俺一人で十分だと思っているところが怖いんですよ」


「だって勇者様ですから」


「……」


 その言葉には妙な説得力があった。


 俺は国で一番強い。


 たしかに、俺一人なら大抵のことには対処できる。


 でも、問題は俺ではない。


「お嬢様が狙われる可能性があります」


「そのときは守ってください」


「……」


「勇者様のお仕事ですよね?」


 笑顔。


 完全に俺の弱点を理解している。


「……わかりました」


「本当ですか!」


「ただし、陛下の許可が取れたらです」


「ありがとうございます!」


 お嬢様が嬉しそうに頭を下げた。


 その顔を見ると、断れなかった自分が少し悔しい。


 でも――。


 同時に、少し楽しみでもあった。


 王城の中で過ごすお嬢様しか知らない。


 街ではどんな顔をするのだろう。


 何に興味を持つのだろう。


 何を見て笑うのだろう。


 そんなことを考えている自分に気づいて、俺は少し驚いた。


 以前の俺なら、任務のことしか考えていなかった。


 今は違う。


 お嬢様のことを考える時間が増えている。


 それが嫌ではない。


 むしろ――。


 心地よかった。


     ◇


 国王陛下の許可は、意外なほどあっさり下りた。


「勇者殿が一緒なら問題ないだろう」


「ありがとうございます!」


 お嬢様は嬉しそうだった。


 その横で、俺は少し嫌な予感がしていた。


「ただし」


 陛下が俺を見る。


「絶対に娘から目を離さないでくれ」


「もちろんです」


「本当に頼むぞ」


「はい」


 陛下の顔が妙に真剣だった。


 俺はその理由を、そのときはまだ理解していなかった。


     ◇


 そして、街へ出た。


「わあ……!」


 城門を抜けた瞬間、お嬢様の顔が変わった。


 王城にいるときの上品な微笑みとは違う。


 子供のように目を輝かせている。


「すごいです!」


「何がですか?」


「全部です!」


「全部……」


「人がこんなにたくさんいます!」


「王都ですからね」


「お店もいっぱいあります!」


「王都ですからね」


「いい匂いがします!」


「それはパン屋ですね」


「行きましょう!」


「え?」


 お嬢様が俺の袖を引っ張る。


「パン屋さんです!」


「いや、まず目的を――」


「勇者様」


「はい」


「お腹が空きました」


「……」


 俺は諦めた。


「行きましょうか」


「はい!」


 パン屋に入る。


 焼きたてのパンが並んでいる。


 お嬢様は一つ一つを眺めながら悩んでいた。


「どれにしましょう……」


「全部買えばいいんじゃないですか?」


「そんなことをしたら食べきれませんよ」


「じゃあ、俺が食べます」


「勇者様は食べるんですね」


「俺、結構食べますよ」


 結局、お嬢様は三つ選んだ。


 俺はその袋を持った。


 店を出る。


「次はどこへ行きましょう?」


「……」


 俺は袋を見る。


 そしてお嬢様を見る。


「お嬢様」


「はい?」


「今日は買い物をする予定でしたか?」


「はい!」


「どれくらい?」


「いっぱいです!」


「……」


 嫌な予感が確信に変わった。


     ◇


 予想通りだった。


「これ、かわいいです!」


「買いますか?」


「はい!」


「じゃあ俺が持ちます」


「ありがとうございます」


「これも欲しいです」


「はい」


「こっちも」


「はい」


「あと、あれも――」


「はい」


 気がつけば俺の両手は買い物袋でいっぱいになっていた。


 剣を持って戦場を駆け回っていた俺が。


 今は大量の買い物袋を抱えて王都を歩いている。


「……」


 なんだろう。


 すごく平和だ。


 そして――。


 悪くない。


「勇者様」


「なんですか?」


「重くないですか?」


「全然」


「本当に?」


「これくらいなら問題ありません」


 実際、重くはない。


 ドラゴンの死体を運ぶほうがよほど重い。


「さすが勇者様ですね」


「ありがとうございます」


 お嬢様が笑う。


 俺も笑った。


 ただ歩いているだけなのに。


 妙に楽しい。


 不思議だった。


     ◇


 昼を過ぎた頃。


 俺たちは小さな広場にあるベンチに座った。


 お嬢様は買ったばかりのパンを食べている。


「おいしいです」


「それはよかったですね」


「勇者様も食べますか?」


「いいんですか?」


「もちろんです」


 差し出されたパンを受け取る。


 一口食べる。


「……おいしい」


「でしょう?」


 お嬢様が嬉しそうに笑う。


 俺はパンを食べながら、街を眺めた。


 人々が笑っている。


 子供が走っている。


 商人が客を呼び込んでいる。


 どこにも魔物はいない。


 悲鳴も聞こえない。


 剣を抜く必要もない。


 俺が勇者になった頃には、こんな景色を想像できなかった。


「勇者様」


「はい?」


「楽しいですか?」


 また同じことを聞かれた。


 俺は少し考える。


「……はい」


「本当ですか?」


「本当です」


 以前の俺なら、こんな一日を「何もしていない」と思っていたかもしれない。


 けれど今は違う。


 何もしていないわけではない。


 お嬢様と一緒にいる。


 街を歩く。


 パンを食べる。


 そんな時間も、悪くないと思える。


「私も楽しいです」


「そうですか」


「勇者様と一緒だからです」


「……」


 不意打ちだった。


 心臓が一つ、大きく跳ねる。


「そ、そうですか」


「はい」


 お嬢様は何でもないことのように言った。


 俺だけが変に意識している。


 恥ずかしくなって、パンに視線を落とす。


 ……俺は何を考えているんだ。


 護衛対象だ。


 王女だ。


 俺は勇者。


 ただ、それだけだ。


 なのに。


 この人が「楽しい」と言ってくれると、自分まで嬉しくなる。


 もっと笑ってほしいと思う。


 もっと一緒にいたいと思う。


 そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていた。


     ◇


「勇者様!」


「はい?」


「あれを見てください!」


 お嬢様が立ち上がる。


 視線の先には、小さな露店があった。


 アクセサリーを売っている。


「行きましょう!」


「まだ行くんですか?」


「はい!」


「……」


 俺は立ち上がった。


 もちろん、荷物を持ったまま。


「勇者様」


「なんですか?」


「ありがとうございます」


「何がですか?」


「今日、付き合ってくださって」


「仕事ですから」


 そう答えた。


 けれど。


 自分でもわかっていた。


 たぶん、もう「仕事だから」だけではない。


 お嬢様が楽しそうにしているのを見るのが――。


 俺は、好きになり始めていた。


「勇者様?」


「なんでもありません」


 俺は笑う。


「行きましょう、お嬢様」


「はい!」


 お嬢様が先を歩く。


 俺はその後ろをついていく。


 そしてふと思った。


 ――もし、これが仕事じゃなくても。


 俺はきっと、この人についていくのだろう。


 そんな考えが浮かんだことを、俺は誰にも言わなかった。


 もちろん。


 自分自身にも、まだはっきりとは認めたくなかった。


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