03.敵は紅茶
勇者になってから、いろいろなものと戦ってきた。
巨大な魔獣。
人間を襲う飛竜。
毒を持つ魔物。
呪いを使う怪物。
数え切れないほどの敵と剣を交えてきた。
だから俺は、それなりに自信がある。
どんな敵が相手でも、冷静に戦える。
どれだけ巨大な魔物が現れても、恐れることはない。
……少なくとも、今まではそう思っていた。
「勇者様」
「はい」
「少し、お時間よろしいですか?」
王城の庭。
今日も俺は、お嬢様の護衛をしていた。
テーブルの上には白いクロスが敷かれ、その上にティーカップと小さな菓子が並べられている。
春の柔らかな風が庭を通り抜ける。
鳥の声。
花の香り。
穏やかな午後。
俺はお嬢様から少し離れたところに立っていた。
「もちろんです」
「では、こちらへ」
お嬢様が向かい側の椅子を指差す。
「座ってください」
「俺もですか?」
「はい。今日は二人でお茶を飲みたいんです」
そう言われると断りづらい。
俺は椅子に座った。
「失礼します」
「そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ」
「いや、王女ですから」
「私と勇者様しかいませんよ?」
「……それでもです」
お嬢様は小さく笑った。
「真面目なんですね」
「そうですか?」
「はい」
そう言われると、少しだけ照れる。
俺は誤魔化すように紅茶へ視線を向けた。
「いただきます」
一口。
香りが口いっぱいに広がる。
「おいしいですね」
「本当ですか?」
「ええ」
「よかった」
お嬢様は嬉しそうに微笑んだ。
たったそれだけの会話なのに、不思議と心が落ち着く。
以前なら、この時間に何をしていたのだろう。
魔物の討伐。
剣の鍛錬。
次の任務の準備。
そんなことばかりだった。
今は違う。
ただ紅茶を飲んでいる。
それだけだ。
それなのに――。
「勇者様」
「はい?」
「楽しいですか?」
「……え?」
突然聞かれて、俺は少し戸惑った。
「お茶会です」
「もちろんです」
反射的に答えた。
すると、お嬢様は目を細めて笑った。
「それならよかったです」
その笑顔を見ていると、こちらまで嬉しくなる。
……なんだろう。
この感じ。
別に大したことではない。
ただ一緒にお茶を飲んでいるだけだ。
それなのに、もっとこの時間が続けばいいと思ってしまう。
「勇者様?」
「……なんですか?」
「ぼーっとしていましたよ」
「いや、ちょっと考え事を」
「何を考えていたんですか?」
「秘密です」
「まあ」
お嬢様が少し頬を膨らませる。
その表情がおかしくて、俺は笑ってしまった。
「ふふっ」
「笑わないでください」
「すみません」
「もう」
お嬢様もつられて笑う。
穏やかな時間だった。
本当に、穏やかな――。
そのとき。
「……あ」
お嬢様が小さな声を漏らした。
「どうしました?」
「いえ……」
お嬢様の手元を見る。
ティーカップが少し傾いている。
「あっ」
次の瞬間。
バシャッ。
「……」
「……」
白いテーブルクロスに、紅茶が広がった。
俺は固まった。
お嬢様も固まっている。
風が吹く。
花びらが一枚、テーブルの上に落ちた。
「……」
「……」
お嬢様が、ゆっくり俺を見る。
「勇者様」
「はい」
「どうしましょう」
「……」
俺は立ち上がった。
「大丈夫です」
近くに置いてあった布を取る。
「俺は勇者ですから」
「え?」
俺はテーブルを拭き始めた。
「これくらい、どうってことありません」
「でも……」
「気にしなくて大丈夫ですよ」
俺は笑った。
実際、これくらいなら何でもない。
ドラゴンの爪を受けるよりはるかに楽だ。
……比較対象がおかしい気もするが。
「すみません」
「謝らなくていいですよ」
「でも、私……」
「お嬢様」
俺は手を止めた。
「怪我はありませんか?」
「はい」
「それなら大丈夫です」
お嬢様が目を丸くする。
「紅茶なんて、こぼれたら拭けばいいんですから」
「……」
「服も汚れていませんね」
「はい」
「なら問題ありません」
そう言うと、お嬢様は小さく笑った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
再びテーブルを拭く。
すると――。
「勇者様」
「はい?」
「少し嬉しいです」
「何がですか?」
「勇者様が、私のことを怒らないことです」
「怒る理由なんてないでしょう」
「でも、以前は侍女がすごく困った顔をしていました」
「まあ……」
俺は少し考える。
確かに、使用人からすれば大変なのだろう。
でも。
「お嬢様がわざとやったわけじゃないんですよね?」
「もちろんです」
「だったら、それで十分ですよ」
「……」
お嬢様は黙って俺を見ていた。
「どうしました?」
「いえ」
少しだけ頬を赤くして、視線を逸らす。
「やっぱり、勇者様にお願いしてよかったなと思って」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなった。
「……そうですか」
「はい」
俺も視線を逸らす。
顔が熱い。
別に何も恥ずかしいことなんてない。
ただ「お願いしてよかった」と言われただけだ。
それだけなのに。
「勇者様」
「はい?」
「これからも、私のそばにいてくださいね」
俺は一瞬、言葉を失った。
そばにいる。
もちろん護衛なのだから当然だ。
仕事なのだから。
そう答えればいい。
なのに。
なぜか、すぐには言葉が出てこなかった。
「……はい」
ようやく出てきた声は、自分でも驚くほど優しかった。
「もちろんです」
お嬢様が笑う。
その笑顔を見た瞬間。
俺は思った。
――この人を守りたい。
勇者だから。
そう思った。
たぶん、それだけだ。
◇
「勇者様」
「はい」
「こちらの書類を隣の部屋へ運んでください」
「わかりました」
「それから、庭の花が少し乱れているので――」
「わかりました」
「あと、先ほどのテーブルクロスを――」
「それも俺がやります」
次々と仕事を頼まれる。
気がつけば、俺はお嬢様の身の回りのことをかなり手伝っていた。
その様子を見ていた執事が、とうとう口を開いた。
「勇者様」
「なんでしょう?」
「一つ、よろしいでしょうか」
「はい」
「それは本当に勇者様の仕事でしょうか?」
「……」
俺は手に持った洗濯物を見る。
そして、執事を見る。
「……違いますね」
「ですよね」
「でも、俺は暇ですから」
「そういう問題ではありません」
「それに――」
俺はお嬢様を見る。
お嬢様は楽しそうにこちらを見ていた。
「頼まれたら、断れないでしょう」
「……」
執事は何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。
ただ、深いため息をついた。
「勇者様は、もう少し自覚を持たれたほうがよろしいかと」
「何の自覚です?」
「……いえ。なんでもありません」
そう言って執事は去っていった。
俺は首を傾げる。
何だったんだろう。
「勇者様」
「はい?」
「明日は何をしましょうか?」
お嬢様がこちらを見上げている。
俺は少し考えた。
「そうですね……」
明日。
明日は何をするのだろう。
魔物退治はない。
危険な任務もない。
ただ、お嬢様のそばにいる。
以前なら、それを「暇」と呼んでいた。
けれど今は――。
「明日も、一緒に散歩しましょうか」
「はい!」
お嬢様が嬉しそうに笑う。
その顔を見ると、俺も自然と笑ってしまう。
不思議だった。
何も起きない一日なのに。
剣を振るうことすらないのに。
なぜか、明日が少し楽しみになっている。
そして、この日の俺はまだ知らなかった。
これから先。
紅茶だけでは済まないほどのハプニングが、毎日のように俺を待ち受けていることを。
――それでも。
たぶん俺は、その一つ一つを嫌いにはならないのだろう。
お嬢様が笑ってくれるのなら。
俺は今日も、勇者でいられるのだから。




