17.警戒する
その日から、俺は以前よりも周囲を見るようになった。
廊下を歩く時。
庭園に出る時。
城下町へ行く時。
以前なら気にも留めなかった場所まで、自然と目が向く。
窓。
扉。
階段。
城壁。
人の顔。
誰かがこちらを見ていないか。
何か変わったものがないか。
――自分でも、少し神経質になっていると思う。
「勇者様」
「はい?」
「最近、ずっと周りを見ていますね」
お嬢様に言われて、俺は苦笑した。
「そう見えますか?」
「見えます」
庭園のベンチ。
俺たちは並んで座っていた。
お嬢様は膝の上に本を置いている。
読んでいるようで、実際にはほとんど読んでいない。
たぶん、俺の様子が気になっているのだろう。
「……少し気になることがあって」
「この前の紙ですか?」
「それもあります」
黒い印の描かれた紙。
あれ以来、似たような不審なものは見つかっていない。
だからこそ、余計に気味が悪かった。
「国王陛下には?」
「報告しています。城の警備も少し強化してもらいました」
「そうですか」
お嬢様は安心したように頷いた。
だが、しばらくすると小さく呟いた。
「……私のせいでしょうか」
「え?」
「勇者様が警戒するようになったのは」
「違います」
俺は即答した。
「お嬢様のせいではありません」
「でも……」
「むしろ逆です」
俺は少し考えてから言った。
「俺が勝手に心配しているだけです」
「勝手に?」
「はい」
お嬢様が不思議そうな顔をする。
「どうして?」
その問いに、俺は答えられなかった。
――大切だから。
そんな簡単な言葉なのに。
本人を前にすると、どうしても口にできない。
「……勇者だからです」
結局、いつもの言葉に逃げた。
「俺は勇者ですから」
「また、それですか」
お嬢様は少し笑った。
「便利な言葉ですね」
「そうなんですよ」
「では、勇者様」
「はい?」
「勇者様が私を守ってくれるなら、私も勇者様を守ります」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
「私だって、王女ですから」
「それはどういう理屈ですか」
「分かりません」
お嬢様は笑った。
「でも、勇者様ばかりが私を守るのは不公平でしょう?」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
守られるだけの人ではない。
お嬢様は、そう言いたいのだろう。
俺は小さく笑った。
「じゃあ、お願いします」
「はい」
お嬢様も笑った。
その瞬間だった。
――ガシャーン!
突然、庭園の向こうから大きな音が響いた。
「えっ?」
お嬢様が立ち上がる。
俺もすぐに立った。
「ここにいてください」
「勇者様!」
俺は音のした方向へ走った。
庭園の端にある小さな倉庫。
扉が半開きになっている。
近づくと、中から花瓶がいくつも落ちていた。
風で倒れたのか。
そう思った。
だが――。
床に、小さな靴跡があった。
「……」
俺はしゃがみ込む。
土が付いている。
庭の土ではない。
少し赤みのある、乾いた土。
そして、その先には――。
窓。
開いている。
俺は窓から外を見た。
そこには城壁へ続く道がある。
「勇者様」
いつの間にか、お嬢様が後ろに立っていた。
「来ないでくださいと言ったでしょう」
「すみません」
お嬢様は少し申し訳なさそうに笑った。
「でも、心配だったので」
「……」
俺は何も言えなかった。
こんな時まで、俺の心配をする。
普通なら、自分の身を心配するものだ。
でもお嬢様は違う。
「大丈夫です」
俺は笑った。
「誰もいません」
「本当に?」
「はい」
嘘ではない。
今、この場所には誰もいない。
ただ――。
誰かがいた痕跡はある。
それだけだった。
その日の夕方。
俺は国王陛下に報告した。
城内の見回りが増えた。
兵士たちも警戒している。
それでも、犯人は見つからない。
まるで、こちらの動きを全部知っているかのようだった。
「……嫌な感じだな」
自室で剣を磨きながら、俺は呟いた。
敵が強いことは怖くない。
強い敵なら、戦えばいい。
どれだけ強大な魔物でも、俺は今まで倒してきた。
問題なのは――。
相手の目的が分からないことだ。
俺を狙っているのか。
国を狙っているのか。
それとも。
「……お嬢様を?」
その考えが浮かんだ瞬間、手が止まった。
胸の奥が冷たくなる。
考えたくない。
そんなことが起きるはずがない。
いや。
起きてほしくない。
俺はこれまで、何度も死線を越えてきた。
自分が傷つくことなら、怖くない。
それなのに。
お嬢様に何か起きるかもしれない。
そう考えただけで、指先が震えそうになる。
「……俺は、弱くなったな」
昔なら、こんな恐怖は知らなかった。
守るものがなかったからだ。
失うことを恐れる必要もなかった。
だから、どんな敵にも立ち向かえた。
今は違う。
俺は初めて――。
戦う前から、怖いと思っている。
敵ではない。
未来が怖い。
もし、お嬢様を守れなかったら。
もし、俺の判断が間違っていたら。
もし――。
そこまで考えて、俺は首を振った。
「……やめよう」
まだ何も起きていない。
勝手に最悪の未来を想像するなんて、勇者らしくない。
俺は剣を鞘に戻した。
その時。
扉が軽く叩かれた。
「勇者様?」
お嬢様だった。
「どうしました?」
「少し、お話ししてもいいですか?」
「もちろんです」
扉を開ける。
お嬢様は少しだけ俯いていた。
「……今日のことなんですが」
「はい」
「怖くありませんでしたか?」
「俺が?」
「はい」
また、その質問だった。
俺は少し笑った。
「正直に言えば、少し」
「そうですか……」
お嬢様は黙り込んだ。
そして、ぽつりと。
「私も、怖いです」
その言葉に胸が締め付けられた。
「でも」
お嬢様が顔を上げる。
「勇者様が怖いと思っているなら、私も怖がっていい気がします」
「……」
「だって、勇者様も普通の人ですもの」
その言葉が、妙に心に残った。
勇者。
最強。
国を救った英雄。
そんな肩書きばかりを見られてきた俺にとって。
普通の人だと言われたことが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
「……ありがとうございます」
「どうしてお礼を?」
「なんとなくです」
お嬢様が笑う。
俺も笑った。
「勇者様」
「はい?」
「一つだけお願いがあります」
「何ですか?」
「何か怖いことがあったら、私にも教えてください」
「……」
「私は、王女ですけど」
お嬢様は少しだけ胸を張った。
「勇者様の隣にいる人でもありますから」
その言葉に、胸が大きく鳴った。
隣にいる人。
その響きが、どうしようもなく嬉しかった。
「分かりました」
俺は頷いた。
「約束します」
「はい」
お嬢様は安心したように笑った。
そして、部屋へ戻っていく。
扉が閉まる。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
「……本当に、敵わないな」
俺は小さく笑った。
守らなければと思う。
でも。
守るだけではない。
この人の隣にいたい。
この人に、自分のことも知ってほしい。
そんな気持ちが、少しずつ大きくなっている。
だからこそ――。
俺は、まだ知らなかった。
敵が狙っているのは、俺ではない。
そして。
敵が俺の弱さだと思っているものは。
俺にとっては――。
何よりも大切なものだということを。




