18.守ることの難しさを知る
それから三日。
何も起こらなかった。
黒い印の描かれた紙。
開いていた窓。
庭園で見つかった靴跡。
どれも、それ以来姿を見せていない。
城の警備は強化されている。
兵士たちも普段以上に注意している。
だから、もう大丈夫なのかもしれない。
俺はそう思おうとしていた。
「勇者様!」
「はい」
「こちらです!」
庭園から、お嬢様の声が聞こえる。
振り返る。
お嬢様が両手いっぱいに花を抱えて走ってくる。
「走ると危ないですよ」
「大丈夫です!」
言ったそばから、足元の石につまずいた。
「――危ない!」
俺は慌てて駆け寄った。
お嬢様の身体を支える。
「……大丈夫ですか?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
お嬢様は俺の腕の中で笑った。
「勇者様がいるので」
「……」
また、それか。
俺はため息をつきながら、お嬢様を立たせる。
「次からは走らないでください」
「分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困ります」
お嬢様が楽しそうに笑った。
俺も笑った。
――平和だ。
あまりにも平和だった。
だからこそ。
俺は油断していたのかもしれない。
「勇者様」
「はい?」
「この花、どこに植えましょう?」
「そうですね……」
俺たちは花壇へ向かった。
そんな何気ない時間が、俺は好きだった。
戦いもない。
危険もない。
ただ花を植えるだけ。
以前の俺なら、こんな時間に価値を感じなかっただろう。
でも今は違う。
この時間を守りたい。
そう思っている。
だから――。
「勇者様?」
「……」
「どうしました?」
「いや」
俺は周囲を見回した。
庭園の向こう。
城壁。
窓。
木々。
何もない。
「何でもありません」
そう答えた。
その日の夕方。
俺は兵士の詰め所へ呼ばれた。
「勇者様。こちらを」
机の上に並べられていたのは、数枚の紙だった。
「これは?」
「警備記録です」
「警備記録?」
「はい」
兵士が一枚目を指差す。
「ここ三日間、城内の特定区域で、不自然な警備兵の交代が起きています」
「不自然?」
「交代時間が、ほんの数分ずつずれているんです」
俺は記録を見る。
確かに。
毎日同じ場所で、微妙に時間が違う。
「偶然じゃないのか?」
「最初はそう思いました」
兵士が二枚目を出した。
「ですが、こちらをご覧ください」
そこには、お嬢様の行動予定が書かれていた。
庭園。
図書室。
食堂。
東側の温室。
城下町への外出。
「……これは?」
「王女様の予定です」
俺は顔を上げた。
「なぜ、警備記録に?」
「念のため、護衛の配置を確認するためです」
確かに、それ自体はおかしくない。
だが。
「この予定表を、誰が作った?」
「城内の担当者です」
「閲覧できる人間は?」
「限られています」
俺は黙り込んだ。
嫌な予感がする。
「もう一枚あります」
兵士が最後の紙を差し出した。
「王女様が予定を変更した日があります」
「……」
「その日だけ、城の外で不審な人物が目撃されています」
背筋が冷たくなった。
偶然ではない。
そう思った。
誰かが、お嬢様の行動を知っている。
しかも。
城の中から情報を得ている可能性がある。
「このことを知っている人間は?」
「まだ、私と数名だけです」
「国王陛下には?」
「これから報告するところです」
「待ってください」
俺は立ち上がった。
「俺から報告します」
「分かりました」
詰め所を出る。
廊下を歩きながら、頭の中で考える。
敵は強いのか。
どんな能力を持っているのか。
何人いるのか。
目的は何なのか。
分からない。
ただ、一つだけ分かった。
――敵は俺たちのことを、かなり詳しく知っている。
俺の強さ。
城の警備。
そして、お嬢様の行動。
その情報を集めている。
それなら。
目的は何だ?
俺を倒すことなら、もっと簡単な方法がある。
寝込みを襲えばいい。
毒を盛ることだってできる。
なのに、そうしていない。
まるで――。
何かを待っている。
俺はそこで立ち止まった。
「……まさか」
頭に一つの考えが浮かぶ。
俺ではない。
狙われているのは――。
「お嬢様……?」
その瞬間。
俺は走り出していた。
庭園へ向かう。
だが。
そこにお嬢様はいなかった。
「……いない?」
いつもなら、午後はここにいる。
念のため、侍女に聞く。
「姫様でしたら、先ほど図書室へ向かわれました」
「図書室?」
「はい」
俺はすぐに向かった。
図書室の扉を開ける。
「お嬢様!」
「勇者様?」
いた。
窓際で本を読んでいる。
「……どうしました?」
「いえ」
俺は胸を撫で下ろした。
「ちょっと顔を見たかっただけです」
「変なの」
お嬢様は笑った。
俺はその向かいに座る。
「何を読んでいるんですか?」
「昔の旅行記です」
「旅行記?」
「はい。いろいろな国が載っています」
お嬢様は本を閉じた。
「私も、いつかいろんな場所へ行ってみたいです」
「……」
以前も聞いた言葉だった。
もっと外の世界を見たい。
もっと自由になりたい。
その願いを、俺は知っている。
「いつか行けますよ」
「勇者様も一緒に?」
「……もちろん」
自然に答えていた。
お嬢様は嬉しそうに笑う。
「約束ですよ?」
「約束です」
けれど。
その瞬間、俺は思った。
もし敵が本当にお嬢様を狙っているなら。
俺がそばにいることが、一番安全なのだろうか。
それとも。
俺がそばにいるからこそ、敵はお嬢様を狙うのだろうか。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
俺は勇者だ。
敵と戦うことなら、誰よりも得意だ。
でも――。
大切な人を守る方法を考えることは、剣を振るよりずっと難しい。
「勇者様?」
「はい?」
「また考え事ですか?」
「……分かります?」
「分かります」
お嬢様は少し笑った。
「最近、勇者様のことが少し分かるようになりました」
「俺のことが?」
「はい」
胸が跳ねた。
「考え込むと眉間にしわが寄ります」
「それは前にも聞きました」
「それから――」
お嬢様は少しだけ身を乗り出した。
「私のことを心配すると、私の顔を何度も確認します」
「……」
完全に見抜かれていた。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
「そういうわけにはいきません」
「どうして?」
「お嬢様のことだからです」
「それは……また勇者だから、ですか?」
「……」
俺は苦笑した。
「まあ、それもあります」
でも、本当は違う。
勇者だから守る。
それだけではない。
この人だから守りたい。
だから、怖い。
そのことだけは、まだ言えなかった。
お嬢様はしばらく俺を見つめていた。
そして。
「では、私からも一つ約束してください」
「何ですか?」
「私の自由を奪わないでください」
俺は息を止めた。
「……」
「怖いことがあるのは分かっています」
お嬢様は静かに続けた。
「でも、何も知らないまま部屋に閉じ込められるのは嫌です」
「……分かりました」
「本当に?」
「はい」
俺は頷いた。
「お嬢様が自由でいられるように守ります」
それが俺にできることだ。
危険だからといって、閉じ込めるだけでは意味がない。
お嬢様が笑える日常を守る。
そのためなら。
俺は何度でも考える。
どうすれば、この人を守れるのか。
その夜。
俺は一人、城の屋上に立っていた。
街の明かりを眺める。
平和な夜だ。
風も穏やかだった。
それなのに。
胸の奥には、嫌な予感が残っている。
敵は、こちらを見ている。
きっと今も。
どこかから。
俺は剣に手を置いた。
「……来るなら、俺を狙え」
誰もいない夜空に向かって呟く。
「お嬢様には、手を出すな」
返事はない。
ただ、風だけが吹いた。
俺は空を見上げる。
星が見える。
平和な夜空。
いつまでも続いてほしいと思った。
――でも。
平和というものは。
失ってから、その価値に気づくものなのかもしれない。
その頃の俺はまだ知らなかった。
敵が狙っていたのは、俺でも国でもない。
そして。
その手はもう――。
お嬢様のすぐ近くまで伸びていた。




