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冒険しない勇者  作者: 和泉きよ


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16/25

16.お嬢様の大切なものを守る

 翌朝。


 俺は、いつもより少し早く目を覚ました。


 理由は分からない。


 何か嫌な夢を見たわけでもない。


 体調が悪いわけでもない。


 ただ、目が覚めた瞬間から胸の奥に、小さな違和感があった。


 昨日の不審者。


 東門から城下町を見ていたという、正体不明の人物。


 あれが気になっている。


「……考えすぎか」


 俺はベッドから起き上がった。


 俺はこれまで、何度も命の危険に晒されてきた。


 強大な魔物と戦ったこともある。


 罠にかかったこともある。


 敵に囲まれたことだって、一度や二度ではない。


 だから、危険の気配には敏感なつもりだった。


 けれど――。


 今の俺が警戒しているのは、自分の命ではない。


 お嬢様のことだった。


 それが、以前とは違うところなのだろう。


 支度を終えて部屋を出る。


 いつもの廊下。


 いつもの朝。


 そして――。


「勇者様!」


「……おはようございます、お嬢様」


 いつものように、廊下の向こうからお嬢様が走ってきた。


「今日も早いですね!」


「お嬢様もですよ」


「私は早く勇者様に会いたかったので」


「……」


 不意打ちだった。


「どうしました?」


「いえ……何でもありません」


 危ない。


 朝からそんなことを言われると、心臓に悪い。


「それより、今日は何をするんですか?」


「実はですね――」


 お嬢様が何かを言おうとした、その時。


 廊下の角から侍女が現れた。


「姫様。こちらにいらっしゃいましたか」


「どうしました?」


「こちらを」


 侍女が差し出したのは、一枚の紙だった。


「今朝、姫様のお部屋の前に落ちていたそうです」


「私の?」


「はい」


 お嬢様が紙を受け取る。


 そこには何も書かれていなかった。


 ただ、中央に小さな黒い印が描かれている。


 見覚えのない紋章だった。


「……何でしょう、これ?」


「分かりません」


 侍女が不安そうに答える。


 俺は紙を受け取った。


 裏を見る。


 何もない。


 匂いを嗅ぐ。


 特に変わったものはない。


 魔力の痕跡も感じない。


 ただの紙。


 それなのに。


 嫌な感じがした。


「これは俺が預かります」


「勇者様?」


「念のためです」


 お嬢様は少し不安そうな顔をした。


「危険なんですか?」


「まだ分かりません」


 俺は正直に答えた。


「だからこそ、調べておきたい」


「……はい」


 お嬢様は頷いた。


 俺は紙を折りたたみ、懐へしまう。


 その時。


 廊下の向こうで、何かが落ちる音がした。


 カラン。


 金属音。


 俺は反射的にそちらを見る。


「誰だ?」


 返事はない。


 すぐに駆け出した。


 廊下の角を曲がる。


 そこには誰もいなかった。


 ただ、床に銀色の小さな留め具が落ちていた。


 拾い上げる。


 見覚えのない物だった。


「勇者様!」


 後ろからお嬢様の声。


「大丈夫ですか?」


「ああ」


 そう答えながら、俺は廊下の先を見る。


 窓が一つ、開いていた。


 朝の風が吹き込んでいる。


「……窓から?」


 だが、ここは三階だ。


 普通の人間が外から入れる高さではない。


 俺は窓辺へ近づいた。


 下を見る。


 何もない。


 ただの庭。


 静かな朝。


 鳥の鳴き声。


 何もおかしくない。


 なのに。


 俺は、なぜか確信していた。


 誰かがここにいた。


 そして――。


 俺たちを見ていた。


「勇者様?」


「……何でもありません」


 俺は窓を閉めた。


「今日は部屋の外へ出る時、俺に一声かけてください」


「そんなに警戒する必要がありますか?」


「念のためです」


「分かりました」


 お嬢様は素直に頷いた。


 けれど、その顔には少しだけ寂しさが浮かんでいた。


「……自由に歩けなくなってしまうのは、少し嫌です」


「お嬢様」


「分かっています。勇者様が私を心配していることも」


 お嬢様は笑った。


「でも、私は今までずっと守られてきましたから」


 その言葉を聞いて、俺は何も言えなくなった。


 お嬢様が嫌がっていることを、俺は知っている。


 ただ「王女だから」と言われること。


 何をするにも誰かが先回りすること。


 自分で何かを決めることすら許されないこと。


 俺は、それを変えてあげたいと思っていた。


 だから。


「……分かりました」


「え?」


「できるだけ自由にしましょう」


「本当ですか?」


「ああ。ただし、危険な時は俺の言うことを聞いてください」


「それなら約束します」


 お嬢様が笑った。


 その笑顔を見て、俺も笑う。


 ――守ることと、閉じ込めることは違う。


 そのことだけは、絶対に忘れたくなかった。


 その日の午後。


 俺たちは庭園にいた。


 お嬢様は花壇の手入れをしている。


 俺は少し離れたところで、それを眺めていた。


「勇者様も手伝ってください」


「俺は見張りです」


「ずるいです」


「勇者だった男に、また園芸させるんですか?」


「勇者様ならできますよね?」


「……」


 反論できない。


「分かりました」


 結局、俺も土を掘ることになった。


「このあたりでいいですか?」


「もう少し右です」


「ここ?」


「少し左です」


「……お嬢様」


「はい?」


「最初から俺にやらせるつもりでしたね?」


「ばれました?」


「ばれますよ」


 二人で笑う。


 その瞬間だった。


 庭園の向こう。


 城壁の上に、一瞬だけ人影が見えた気がした。


 俺は立ち上がる。


「……?」


「勇者様?」


「少し待ってください」


 目を凝らす。


 だが、もう誰もいない。


 風で旗が揺れているだけだった。


「どうしました?」


「いや……」


 俺は座り直した。


「何でもないです」


 気のせい。


 そう思いたかった。


 けれど。


 俺の手は、無意識に剣の柄へ伸びていた。


 お嬢様はそれに気づいたのか、少しだけ俺の顔を見つめた。


「……怖いですか?」


「俺が?」


「はい」


 俺は少し考えた。


「昔なら、怖くなかったと思います」


「今は?」


「……怖いです」


 意外な答えだったのか、お嬢様が目を丸くする。


「魔王よりも?」


「魔王よりも」


「どうして?」


 俺は答えられなかった。


 正確には、答えたくなかった。


 怖いのは敵そのものじゃない。


 もし、何かが起きたら。


 もし、俺の目の前でお嬢様が傷ついたら。


 もし――守れなかったら。


 考えるだけで、胸の奥が締め付けられる。


 昔は、自分が傷つくことなんてどうでもよかった。


 死ぬことさえ、恐れていなかった。


 勇者なのだから。


 誰かを守るために命を使う。


 それが当然だと思っていた。


 でも今は違う。


 失いたくない人がいる。


 だから、怖い。


「……大切なものができると、人は弱くなるのかもしれませんね」


 俺がそう呟くと、お嬢様は静かに首を振った。


「私は、そうは思いません」


「え?」


「大切なものがあるから、強くなれるんじゃないですか?」


 お嬢様は花壇の花を見つめた。


「私には、勇者様がいるから」


 また、その言葉だった。


 胸が熱くなる。


 同時に、責任の重さを感じる。


「……そう言ってもらえるなら」


 俺は剣の柄から手を離した。


「もっと強くならないといけませんね」


「勇者様は、もう十分強いと思います」


「そうですか?」


「はい」


 お嬢様は笑った。


「だから、今度は私も強くなります」


「お嬢様が?」


「はい。いつまでも守られているだけでは嫌ですから」


 その言葉に、俺は少しだけ驚いた。


 そして――嬉しくなった。


 この人なら大丈夫。


 そんな気がした。


 その日の夜。


 俺は昼間に拾った黒い印の紙を、机の上に置いていた。


 何度見ても意味は分からない。


 だが、一つだけ気になることがある。


 この紙が置かれていた場所。


 お嬢様の部屋の前。


 そして、窓。


 そして、城壁。


 すべてが一つにつながっているような気がする。


「……誰なんだ」


 呟いた瞬間。


 窓の外で、何かが動いた。


 俺は立ち上がった。


 窓を開ける。


 だが、そこには誰もいない。


 月明かりに照らされた庭だけが広がっている。


 俺はしばらく外を見つめた。


 やがて窓を閉める。


「……気のせいか」


 そう言い聞かせた。


 けれど。


 この時、俺はまだ知らなかった。


 敵は、俺を倒そうとしているわけではない。


 俺が最も守りたいものを知るために。


 俺の弱点を探すために。


 すでに、すぐ近くまで来ていたのだ。


 そして――。


 その「弱点」は、俺にとって弱点などではなかった。


 俺の人生で、初めてできた。


 何があっても守りたい、大切な存在だった。


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