15.平和の裏側を見る
翌朝。
目を覚まして最初に思ったのは――。
「……今日は何も起きませんように」
だった。
勇者として、どうなのだろう。
自分でもそう思う。
けれど、最近のお嬢様との一日は、何かしらの事件が起きる。
紅茶をこぼす。
料理を失敗する。
突然、城の外へ行きたいと言い出す。
ポンがいなくなる。
そして俺が走り回る。
別に嫌ではない。
むしろ――楽しい。
だからこそ、今日は静かな一日になってほしかった。
そんな願いを抱きながら部屋を出る。
廊下を歩いていると、向こうからお嬢様がやってきた。
「おはようございます!」
「おはようございます、お嬢様」
「今日はいい天気ですね!」
「そうですね」
「どこかへ行きたくなりませんか?」
「……」
嫌な予感がした。
「昨日、街へ行きませんでした?」
「行きました」
「だから今日も――」
「待ってください」
俺は手を上げた。
「今日は何もしないという選択肢はありませんか?」
「ありません」
即答だった。
「勇者様は暇なのでしょう?」
「……まあ」
「では決まりです」
「俺の意見は?」
「聞きました」
「採用は?」
「しません」
「お嬢様……」
思わずため息が出る。
けれど、お嬢様は楽しそうに笑っている。
その笑顔を見ていると、結局こちらまで笑ってしまう。
――本当に、敵わない。
俺たちはそのまま城下町へ向かった。
街はいつも通りだった。
パン屋から焼きたての香りが漂い、商人たちが声を張り上げ、子供たちが通りを走り回っている。
少し前まで、こういう光景を見ると俺は思っていた。
――守らなければ。
魔物が出れば倒す。
盗賊が出れば捕まえる。
危険があれば排除する。
それが勇者の仕事だと思っていた。
けれど今は。
お嬢様が隣で楽しそうに店を覗いている。
それだけで、十分に守れているような気がした。
「勇者様、これ見てください!」
「何ですか?」
「このお菓子、昨日はありませんでしたよ!」
「……本当ですね」
「買いましょう!」
「またですか?」
「またです」
俺は笑いながら財布を取り出した。
その時だった。
「――勇者様」
背後から声がした。
振り返る。
そこにいたのは、城の兵士だった。
「どうした?」
「少し、お耳に入れておきたいことが」
兵士の表情は硬かった。
俺はお嬢様を見る。
「お嬢様、少しだけ待っていてもらえますか?」
「……はい」
俺と兵士は少し離れた場所へ移動した。
「何があった?」
「東門で、不審な者が目撃されています」
「盗賊?」
「分かりません。ただ、城下町を何度か見ていたようです」
「人数は?」
「確認できたのは一人です」
「顔は?」
「フードを深く被っていたため、分かりません」
俺は周囲を見る。
人は多い。
平和な街だ。
だからこそ、一人の不審者を見つけるのは難しい。
「何か盗まれた物は?」
「ありません」
「誰か襲われた?」
「それもありません」
「なら、今は様子を見ていい」
「しかし……」
「警戒は続けてくれ。何かあればすぐに俺へ」
「承知しました」
兵士が去っていく。
俺はしばらく、その背中を見送った。
胸の奥に、小さな違和感が残っていた。
不審者。
それだけなら、珍しい話ではない。
けれど。
なぜだろう。
嫌な感じがする。
「勇者様?」
声に振り返る。
お嬢様がこちらを見ていた。
「どうかしました?」
「いや……何でもありません」
「嘘です」
「え?」
「勇者様、考え事をすると少しだけ眉間にしわが寄ります」
「そんな癖があったんですか?」
「あります」
よく見ている。
そう思った瞬間、胸が少し熱くなった。
「……少し、気になることがあるだけです」
「何か危険なことですか?」
「今のところは何も」
お嬢様は俺の顔をじっと見つめた。
それから、ふっと笑った。
「なら、大丈夫です」
「どうして?」
「勇者様がいるからです」
――その言葉に、胸が痛んだ。
嬉しい。
もちろん嬉しい。
でも同時に、怖かった。
俺がいるから大丈夫。
そう言われることが、今までの俺には当たり前だった。
けれど。
もし俺がいなかったら?
もし俺が守れなかったら?
そんな考えが、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。
「……そうですね」
俺は笑ってみせた。
「俺がいる限り、大丈夫です」
お嬢様は安心したように笑った。
それから、買ったばかりのお菓子を俺に差し出した。
「では、勇者様。これをどうぞ」
「俺に?」
「はい。半分こです」
「ありがとうございます」
一口食べる。
甘い。
ただのお菓子なのに、不思議なくらい美味しかった。
その日の帰り道。
俺は何度か後ろを振り返った。
誰かに見られているような気がする。
けれど、何もいない。
気のせいか。
そう思い直した。
城へ戻ると、お嬢様は今日買った物を並べながら楽しそうに話していた。
「これは部屋に飾りましょう」
「それは食べ物ですよ」
「では食べましょう」
「最初からそうしてください」
くだらない会話。
いつもの笑顔。
いつもの一日。
俺は、その光景を見ながら思った。
――この時間が好きだ。
剣を振るより。
強い魔物を倒すより。
誰かから感謝されるより。
こうして、お嬢様とくだらない話をしている時間のほうが好きだった。
だからこそ。
守りたいと思った。
国だけではない。
この城だけでもない。
この日常を。
お嬢様が笑っていられる、この時間を。
「勇者様?」
「はい?」
「どうして私を見て笑っているんですか?」
「……なんとなくです」
「変なの」
お嬢様は笑った。
俺も笑った。
その夜。
城の外では、冷たい風が吹いていた。
東門の兵士が、城壁の向こうを見張っている。
遠く。
街の明かりから離れた場所に、人影が一つ。
その人物は城を見上げていた。
そして、静かに呟く。
「……勇者は、ここにいる」
風が吹く。
フードがわずかに揺れる。
「ならば――」
その人物は踵を返した。
「勇者が最も大切にしているものを、奪えばいい」
誰も、その声を聞いてはいなかった。
少なくとも、この時は。
俺も。
お嬢様も。
まだ知らなかった。
平和な日々のすぐそばまで――。
何かが近づいていることを。




