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冒険しない勇者  作者: 和泉きよ


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12/25

12.お嬢様のためなら無茶をする

 その日の朝。


 俺はいつものように、お嬢様の部屋へ向かっていた。


「おはようございます」


 扉を開ける。


 けれど。


「…………」


 返事がない。


「あれ?」


 部屋を見回す。


 ベッドは綺麗に整えられている。


 机の上には裁縫道具。


 窓は開いている。


 しかし、お嬢様の姿だけがない。


「お嬢様?」


 もう一度呼ぶ。


「勇者様?」


 背後から声がした。


 振り返ると、お嬢様が廊下の向こうから歩いてくるところだった。


「どこに行っていたんですか?」


「少しだけ庭を見ていました」


「一人で?」


「はい」


「俺を呼んでくれればよかったのに」


「……」


 お嬢様が少し驚いた顔をする。


「どうしました?」


「いえ」


 そして、くすっと笑った。


「勇者様、最近ちょっと心配性になりましたね」


「そうですか?」


「はい」


 そう言われて、自分でも少し考える。


 確かに。


 以前なら、そこまで気にしなかった。


 でも今は。


 いないと不安になる。


 何かあったのではないか。


 怪我をしていないか。


 困っていないか。


 そんなことばかり考えてしまう。


 ――好きだから。


 きっと、それだけだ。


「……まあ、俺は勇者ですから」


 いつもの言葉で誤魔化す。


 お嬢様は笑った。


「またそれですか?」


「便利なんですよ」


「では、今日も勇者様にお願いがあります」


「……やっぱり」


「ふふっ」


 お嬢様は楽しそうだった。


「今日は、少し遠くまで行ってみたいんです」


「どこへ?」


「城の北側にある丘です」


 北の丘。


 城下町からも見える、小高い場所だ。


 危険な場所ではない。


 ただ、少し距離がある。


「分かりました」


「本当ですか?」


「はい」


「やった!」


 お嬢様が嬉しそうに笑う。


 その顔を見た瞬間。


 俺はもう、何でもよくなっていた。


 ◇


 丘へ向かう道は、穏やかなものだった。


 天気もいい。


 風も心地いい。


 お嬢様は何度も立ち止まっては、道端の花を眺めていた。


「この花、初めて見ました」


「そうですか?」


「はい。城の庭にはありません」


「じゃあ、覚えておきましょう」


「勇者様も?」


「もちろん」


 そんな会話をしながら歩く。


 何でもない時間だった。


 でも俺は、こういう時間が好きだった。


 魔物を倒していた頃には、こんな余裕はなかった。


 いつも先を急いで。


 次の町へ向かい。


 次の敵を探して。


 気がつけば一日が終わっていた。


 今は違う。


 花を眺める時間がある。


 くだらない話をする時間がある。


 隣を歩く人の歩幅に合わせる余裕がある。


 ――俺は、こんな生活を知らなかった。


「勇者様?」


「はい?」


「ぼーっとしていますよ」


「すみません」


「疲れましたか?」


「いえ」


 俺は笑った。


「楽しいなと思っていただけです」


 お嬢様が少し驚いたように目を丸くする。


「……私もです」


 その言葉が、妙に嬉しかった。


 ◇


 丘の頂上に着く。


 王都が一望できた。


「わあ……!」


 お嬢様が目を輝かせる。


 俺はその隣に立った。


「綺麗ですね」


「はい」


 風が吹く。


 お嬢様の髪が揺れる。


「ここから見ると、王都って小さく見えますね」


「実際はかなり大きいですけどね」


「不思議です」


 お嬢様は街を眺めながら言った。


「私、あの中にたくさんの人がいるんだと思うと、不思議な気持ちになります」


「……」


「みんな、それぞれの生活をしているんですよね」


「そうですね」


「勇者様も、その中の一人だったんですよね」


「まあ、そうですね」


「今は?」


 お嬢様がこちらを見る。


「今は、私の勇者様です」


「…………」


 また、その言葉だ。


 心臓が、嫌なくらい大きな音を立てる。


「……そうですね」


 俺はなんとか答えた。


「お嬢様の勇者です」


 お嬢様は嬉しそうに笑った。


「ずっとですか?」


「……え?」


「ずっと、私の勇者様でいてくれますか?」


 その問いに。


 俺はすぐには答えられなかった。


 ずっと。


 その言葉が、胸の奥に落ちていく。


 俺だって、そうしたい。


 できることなら。


 ずっと、この人の隣にいたい。


 けれど。


 俺は勇者だ。


 国を守る役目がある。


 もし、また大きな魔物が現れたら。


 もし、国に危機が訪れたら。


 俺は剣を取らなければならない。


 この平和が永遠に続く保証なんて、どこにもない。


 だから。


「……もちろんです」


 俺は笑った。


「俺が勇者である限り」


「……はい」


 お嬢様も笑った。


 けれど、その表情がほんの少しだけ寂しそうに見えた。


 俺は気づかないふりをした。


 ◇


 帰り道。


 少しずつ空が曇ってきた。


「雨が降りそうですね」


「大丈夫です。急ぎましょう」


 そう言った直後。


 ぽつり。


 頬に冷たいものが落ちた。


「……本当に降ってきましたね」


「はい」


 雨はすぐに強くなった。


「お嬢様、こちらへ!」


 俺は自分の上着を脱いで、お嬢様の頭上にかぶせる。


「勇者様は?」


「俺は大丈夫です」


「でも――」


「お嬢様が濡れるよりいいです」


 雨が肩を濡らす。


 冷たい。


 けれど、そんなことはどうでもよかった。


「……ありがとうございます」


 お嬢様が小さな声で言う。


「どういたしまして」


 俺は笑った。


 そして二人で走る。


 城が見えてきた。


 あと少し。


 そう思ったとき。


「勇者様!」


「はい?」


「私、今すごく幸せです!」


 雨音の中で、お嬢様の声が響いた。


 俺は思わず足を止める。


「……どうしてですか?」


「勇者様と一緒だからです!」


 胸が熱くなった。


 言葉が出ない。


 ただ、嬉しかった。


 こんなに嬉しいのに。


 それを素直に返すことができない自分が、少しだけ悔しかった。


「……俺もです」


 やっと、それだけ言った。


「俺も、楽しいです」


 お嬢様が笑う。


 その笑顔を見て。


 俺は改めて思った。


 ――この人を守りたい。


 何があっても。


 どんなことがあっても。


 この笑顔だけは、失わせたくない。


 それはもう、勇者としての使命ではなかった。


 俺自身の願いだった。


 ◇


 城へ戻ると、侍女たちが慌ててタオルを持ってきた。


「お嬢様、こちらへ!」


「はい」


「勇者様も濡れておりますよ」


「俺は大丈夫です」


 そう答えた瞬間。


「大丈夫じゃありません」


 お嬢様が言った。


「勇者様も、ちゃんと拭いてください」


「でも――」


「勇者様」


 少しだけ怒った顔。


「私ばかり心配されるのは、嫌です」


「……」


「私も勇者様を心配したいです」


 その言葉に、胸が詰まった。


 守るだけだと思っていた。


 俺が彼女を守ればいい。


 俺が彼女の隣にいればいい。


 そう思っていた。


 けれど。


 お嬢様もまた。


 俺のことを気にかけてくれている。


 その事実が、嬉しかった。


「……分かりました」


 俺はタオルを受け取った。


「ありがとうございます」


「はい」


 お嬢様が笑う。


 その笑顔を見て、俺も笑った。


 ただの雨の日。


 ただ丘へ行っただけ。


 何も特別なことは起きていない。


 それでも。


 俺にとっては、大切な一日だった。


 そして俺はまだ知らなかった。


 この穏やかな日々が。


 いつまでも続くわけではないことを。


 遠く離れた場所で。


 俺たちの知らない誰かが。


 静かに、この国を見つめていることを。


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