往復切符
家を出て右へ左へと足を進めては辺りを見渡し、見馴れた景色に目を細めては遠くの方から汽笛の音が近づいてくる。
「うむ。これも何かの兆候か」
何処に行くかも悩む間もなく、汽笛の音にしめしめと得意気な顔をしては、駅舎の方へと歩を進める。
運搬ように建てられた平屋造りの駅舎は、運搬目的であった当初とはうって変わり、今では当たり前のように人を乗せる汽車を待っている。
「運ぶモノは違えど、何を連れて行くと言うのか」
私は汽笛の合図に耳を傾けては背から風呂敷を降ろし、座席に着いては肘を乗せるように上に置いた。前で手を振る女学生に目がいった。
「別れか出会いか、連れて連れられ人の想いを汽笛の音に煙が隠す、、か」
ガタつく木枠の窓を上に開けては肘をたて、顎を支えては走る風に思考を巡らす。
体を揺らす振動に、思考も寝入いる子供のように目を閉じていく。
座席に着いて物の数分で眠りにつき、体を揺らす振動に思考も寝むり、子供のように目を閉じていく。
幾分かは走ったか。止まる汽車の振動でうたた寝心地に目が醒めた。来たことも聞いたこともない駅舎に驚いた。私は止まる景色に目を向けては一つ息をはき、物思いに思考をついた。
「ここはどこだ」
感慨深くこんな遠くに来たもんだと、寂しく黄昏るようなモノは風呂敷には入っていない。戻ろうという脅迫概念のような焦りも、私にとっては塩撒いておととい来てくださいと、いったモノである。
「ふむふむ こうなるか」
時として振り返るような出来事もあるが、私は振り返るようなことはない。振り返る事が嫌な訳ではない。振り返る事は誰にでも有る。だが、私には振り返るという事がないだけである。
時代や年代、人それぞれ過去を連れて歩いている。それが時に振り返えさせるモノになり、足を止めることになる。
贅沢な連れなほどに。
振り返れるだけの過去を連れて歩いていれば、さぞや美味しいご飯が頂けるであろう。それはそれは、羨ましいかぎりであり、至福の時間が過ごせるのは間違いない。しかし、その贅沢な連れを持っているせいで、隣にいるこれからの連れが去って行ってしまう。
過去に目を向けてしまえば、今を失うことであり、目を背けてしまうことでもある。
単なる昔話のお茶会なのであれば、フムフムと聞き耳をたて、てんやわんやと騒ぎたてるが、その場に腰を降ろし根を生やしてしまうのならば、すぐさま会計を済ませるだろう。
過去はこれからにとって必要ではあるが、居座るようなモノではない。休息と言う事であれば、言うことはないが、連日宿泊するのなら話は別だ。
何故に過去を連れて歩いて行くのか。全くもって不思議であるが、それが必要なモノであることにも間違いはない。
振り返ることと、振り向くことはまったく違うのである。別に、誰かと議論しようとは微塵にも思ってはいない。それ故に理屈に屁をかます程のようなモノでもない。
隣に連れて歩くのなら、過去の美人よりも、これからの子供といた方が楽しめると言うことである。
旅の恥は書き捨て、後悔をしないようにと、橋を叩いて渡ることも必要ではあるが、橋を壊して渡るのもまた必要である。
歩いてきた道のりは、振り返れば懐かしいモノであり、尊いモノである。けれど、過ぎた事、やり終えた事を、何時までも引きずるようなモノではない。
振り返り、足を止めて根を生やすのであれば、振り向き、良し と、拳を握り高らかに笑った方がさぞ面白い。
もし、過去の連れと旅をするならば、往復切符を握りしめる事を勧める。過去に行き、一つ息をはいたなら、別れと共にこれからの連れに会いに行く。
しかし、残念なことに私は往復切符を買うことはない。
なぜなら、振り返りたいと思う連れと歩いたことはないからだ。
「うむ。これはこれで」
知らない土地に安心感など有るわけがない。しかし、知らないからこそ面白いと、私の連れが問いかけてくるようだ。
ここで一つに降りるのか、はたまたこのまま乗っていようか。
風呂敷を背に乗せては動く足につられて汽車を降りる。
「ほうほう。これはまた美しい」
駅舎から顔を覗かせると、辺り一面を湯気が至るところに広がっている。「さぁさぁこちらへ」と、体を引き寄せるように、湯気が私を包み込む。
駅舎の前に立て掛けれた秘湯温泉郷と書かれた看板に目をやりながら、一歩一歩と導かれる。
湯気の先に段々畑のように上へ上へと建てられた街並みが見える。陽炎のように揺らめきながら、それらは私を見ているような錯覚に、身を揺らしては舌を鳴らし、それらの歓迎を手を広げて受け入れる。




