途中下車
温泉郷に立ち寄っては一つ風呂に入ろうかと、目に入った湯屋に近づいては、後ろで騒ぐ声に振り向いた。
「いつもそうよ。あんたってお人は」
「それは違うぞ、お前もそうだ」
ここに住んでいるのか立ち寄ったのか。何処でもそうだが、連れとの争いは何かと大変なことである。やれそれは、やれあれはと、何かに付けて言葉を出してくる。よもや、人を見ては嘆き悩み、話を聞いては妬み羨む。隣の芝生は青く見えると嫉妬めいたモノを言えるほど私の庭は広くはない。
ごくごく小さな猫の額ほどのモノしか持ってはいない。けれど、自己の思いは詰め込んでいる。
初心を忘れてしまえば只の庭になり、思い出せば鮮やかな庭になる。目に見えるモノばかりなら、さぞや退屈なモノではあるが、目に見えないモノばかりなら、不思議と見えてくるモノがある。
飾り付けた庭ほど、質素なモノはない。
好きなモノばかり集めたような攻撃的なモノよりも、一つ小さな鉢を置いてあるモノの方が私は好きだ。
趣味嗜好はそれぞれ違う。違うからこそ面白い。言ってしまえば、自己の解釈によって見方は変わるのである。
陽気な影は踊り楽しみ、陰気な影は腰を落とす。僅かばかりの差が雲泥の差になってしまう。
身を寄り添う二人を見れば嫉妬や妬みを覚えるが、一度、己が体現すれば優越なモノさえ生まれてくるのである。羨ましさと嫉妬めいた妬みは、焦る心に入り込み、比較する対象を作り上げる。それは、陰気な感情と共に走り出してくる。
羨ましさと妬みの先には道は無い。行けど行けども荒れ果てていく。着いた先には何がある。着いた先には、乗った汽車の駅がある。
同じ所を走っているだけで。
螺旋のような廻るモノに渦を巻いて入り込む。出口の無いモノほどつまらないモノは無い。
心に余裕を持ってしまえば、あれもこれもと手を掴み、縮こまって握りしめたなら、一つに執着する。よもや、どちらが良いのかわからなくなる。けれど、これみよがしに どうだ と見せつけたとしても、自己陶酔なだけである。
拘りと連れ。どちらに重心を置けば成り立つのであろうか。
自尊の拘りは、他人にとってはいらないモノであり、争いになる火種ともなる。ならば連れに合わせるのかと言われれば、それはまた火種ができる。
曖昧なモノが美味である。
幾千もの言い争いの中で唯一の方法は、受け入れることである。それは、一つにまとめる事ではなく、合わせる事。押さえつけたバネほど高く飛ぶということだ。勢いよく飛ぶバネは元には戻って来ない。
ならば、どうしたものか。
バネを押さえつけるのではなく、ゆっくりとつまみに掛けて伸ばせば良い。バネと言う個性は無くなるが、バネと言う存在は残る。跳ねるだけがバネではないと言うことだ。
同じモノでも、見方もやり方も違う。しかし見てるモノ触るモノは同じなのである。互いに違う印象を描いたとしても、同じなのである。即ち、言い争いの元に在るモノは描く所が違うだけで、同じモノを見ているのである。同じ事を考えているのに、ボタンをかけ違えるごとく争いが産まれる。
ならば一度その服を脱いだらどうだろうか。
手放すことで知り得るモノもある。
一理一様、全てに置いて一歩後ろに下がったならば、見える景色が変わると言うもの。かけ違えたボタンも脱いでしまえば意図も容易いことである。
焦って争うことがあるならば、そこから少し離れれば良い。それだけで少しは気分がいい。旅と同じで、意気揚々と足を上げれば疲れてしまう。目的を作れば一足飛びで行きたくなる。けれど、余裕を持って途中で降りることがてきたならば、暗い夜道も華やかな祭りに花火が見えるのである。
思考も思いも変われば見方が変わる。互いを思うのならば、争いの汽車から下車すればよい。簡単な事ではあるが、さぞ難しい。
「なかなかどうして。これはこれは」
湯屋の門には龍と蛇が絡まっては舌を出して此方を向いている。
龍は希望と力を表し、蛇は幸と魅惑を表す。幻想な街並みに幻獣をも甦らせるとは、秘湯温泉郷と謳うだけの事はある。
「ではでは」
風呂敷を背から降ろしては腹の前で抱え込み、いそいそと肩を揺らしては勇み足で湯屋に入った。
高く備える番台に一人女性が座っている。
「ここは初めてかい?ならば、どちらに入るかお決め」
しゃがれた声に空気が震える。体に触る湯気は暖かいのに、女性の声には寒気を感じた。
「フムフム。どちらに行くか」
女性の座る番台の下には、二つの掛札がかけられている。一つは“龍”。一つは“蛇”。出迎えた龍と蛇の絵が描かれている。
「ならば、私はこちらへと」
「よかろう。ならば、お行きなされ」
指を差しては女性に伝え、辺りを見ては奥に入っていった。




