心の皺
ストーリーの進みや読み進み方に、色々あると思いますが、こういうのもありかな?と、思いながら書いてます。意味やら結論を求めるようなモノではないので、あしからず。
ゆるりと書いていきますので、
「これはこれで」
と、お思いのかたはお付き合いください。
犬も歩けば棒に当たる。そんな向上心の塊のようなモノは私の部屋には置いてはいない。有るとするならば、残り物には福があると言われるようなシロモノばかり、かれこれ何年も使い古したモノがそこにはある。少なからず愛着と言うものはあるが、体して思い入れがあるわけでもない。いささか限度というものはあるが、使えさえすればそれで良い。壊れればまた治せばいいことであり、単に買い換えるのが面倒なだけである。
何事にも面倒くさがり屋で、やることなすことため息をつきながら後回しにしてしまう厄介な性格ではあるが、私は何気に気に入っている。他人がひょいひょいとやってのけるのを見ては、素晴らしいと言い、ご苦労様ですと他人行儀になる。
そんな私も人の子だ。恥ずかしながら人知れず幼少の時代から叩き込まれたモノがある。何故そうなったのか、むしろ生まれ持った癖なのか。何時も右足から靴を履く。それは脱ぐときも、何かに上がる時も。一度とは言わないが何度かは挑戦してはみた。左足から履くことを。だが、頭を悩ませることになる。あの何とも言えぬ心地の悪いムズムズとする感覚が、体の隅を這うように支配していく様は、何度味わっても慣れるものではない。したがって、未だに右足から履いている。
良くも悪くもスポンジのように吸収する癖の類いは、幾つになっても忘れないものであり、それらを一様に覚えては、こだわりの箱に物持ちよく飾るのである。
しかし、その形は全て同じようなもので違うものである。
何を持って違うと言うのか。何を持って同じと言うのか。
人はそれぞれ同じであり違うモノを携えている。しかし、あたかも私は違うと胸を張り、大腕振って歩く輩は、決まって同じ姿をしている。
姿、形が同じだとしても、その内に秘めるモノが異なるのであれば、違うモノであり、姿、形が違く、内に秘めるモノが同じなのであれば、それまた違うモノと同じようなモノでもある。
よもや鶏が先か卵が先か。禅問答のような話になるが、同じモノは一つと無い。けれど違うモノも一つと無い。すなわち、全てが同じであり、全てが違うのである。しかしそれらを踏まえて飲み込んだとしても釈然としない靄がかかる。終わりのない迷路をひたすら歩いているような感覚に。
しかし、見えないモノにすがる程私は悠長に構えてはいない。
外を歩けば主張をし、内に入れば身を伏せる。隠れる事もなければ魅せることもない。
全てが違うのであれば皆同じであり、何も代わり映えのないものである。
人は何故に違うモノを求めては、同じように見せるのか。同じことをすれば、人と違うと嘆き弁え、違うと言われれば皆と同じだと豪語する。人は同じであり、違うのである。
違うと言うのであれば何が違うのか。時として何を見て言うのか。誰として納得のいくモノを言う輩はいない。されど、同じだと言う輩もまた、いない。
同じモノになることを拒むというのなら、何を持って晴らすのか。私は聞いてみたい。見てみたい。けれどそれはいたって身近に存在する。しかし、それらを知るものは僅にしかいない。
自分自身への問い掛けに反発するようなモノであり、見たくもないモノでもある。何時いかなる時でも土足で上がってはわめき散らし、寝ている時でも湯に浸かっている時でも、お構い無しにそれらは平気で近寄ってくる。
お前はなんだ。。。
切り返す刃も持たない私は幾度となく倒れ伏せる。立ち上がろうとも立つ気力も無くなるほどに。しかし、彼らは笑顔で手を差し出してくる。
無惨にも倒れさせられ、包む優しさを持って手をさしのべてくる。
自己防衛のためなのか。自分の中に眠る自分が叫んでいるモノなのか。見ることも話すこともないもう一人の自分。
よくやった。それで満足か。。。
自問自答を繰り返すも、一通り自分の中で話が終わりを迎えれば、また同じ話が始まる。
日が沈めば、また日が昇るわけである。
「さて、どうしたものか」
着の身着のまま思いのままに歩いてきた私としては、少し立ち止まってしまう。年を重ねるということは「こういうことなのか」と、手に顎を乗せては風呂敷を広げて頭を捻る。
あーだこーだと、今日は明日はと先の話をしては不安を煽る。青ざめる話に色をつけては、差し込む日差しに目を奪われる。
「よし。ならば」
顎を乗せた手を前に、ポンと音を鳴らして手を叩いては声にだした。
広げた風呂敷に、あれもこれもと放り投げては四隅を掴んで硬く縛り、背に覆うように投げのせる。隣の部屋にいる娘に声をかけては体を起こす。
「ちょっと、外に出てくるよ」
「はい。そうですか。ならば、これをお持ちになりませ」
娘は声を聞いては掃除する手を止めて、机の下から何やら取り出しては渡してきた。
「はて、これは?」
「いやですよぉ。忘れてはいけませんよ。いつものそれですよぉ。」
「お、それは忘れるとこだった。」
背負う風呂敷を背から降ろし、硬く結ぶ紐に手を焼きながら「誰だ、まったく」と呟いて、娘から渡されたそれを風呂敷に詰めてはまた硬く結び直した。
「さて、では行くか」
「して、そんな荷物で何処に向かうんですか?」
娘は風呂敷の荷物を見ては目を丸く、荷物と顔を目で追った。
「何処に、、それはわからん。だから外にでる」
「それはそれは、大変なことですねぇ。」
娘はいつもの事だと気を止めず、「ではでは」と、玄関口へと足を進めた。
「では、お気をつけて。」
「うむ。行ってくる」
「それで、お帰りは何時になりますか?」
「それもわからん。わかる頃には戻ってくる」
娘は意気揚々と外に出る姿を見ては頭を下げて、一途に真っ直ぐ還暦を迎えた私に慈悲の眼差しを向けては部屋に戻っていった。
一途に生きた道標も、この先の事は示していない。年を重ね、二六時中も四六時中も寄り道せずにやっては来たが、還暦を迎えて何もすることがなくなった。
「おう。それならどうだ。昔の友に会いに行くってのは?」
幼少の頃から知る米屋の鉄男から話を聞いては、「それもそうだな」と頷き、一晩考えては行くことにした。
しかし私には友と呼べる者達は、この近くに住んでいる。
「ならば」
人は旅人であり、時を“とも”に歩いていく。私の経験と知識はどれ程あるのか。見ない景色はどれだけ有るのか。
私は“終”を探しに外に出る。“わからない”から外に出る。




