宿
温泉街の夜は静かだった。
辺境街みたいな怒鳴り声も。
酔っ払いの喧嘩も少ない。
代わりに。
湯気が街へ薄く漂っている。
白い雪。
橙色の灯り。
木造建築。
どこか、時間がゆっくり流れているみたいだった。
ザインは石畳を一人歩く。
黒外套。
白髪。
仮面。
湯煙の中を進むその姿は、少しだけ浮いて見えた。
だが。
今は妙に落ち着いていた。
宿を探す。
そんな事をするのは久しぶりだった。
辺境街では、ほとんどグリムヴァルドの家へ帰っていた。
あそこが自然と“帰る場所”になっていたから。
だから今は少し新鮮だった。
知らない街。
知らない宿。
自分で泊まる場所を選ぶ感覚。
湯気の向こう。
ふと、一軒の宿が目に入る。
ギルドからは少し離れていた。
だが、その分静かだ。
木造二階建て。
暖かな灯り。
窓辺には小さな花。
派手ではない。
けれど落ち着いている。
そして。
入り口横へ、本日の食事が書かれた板が立て掛けられていた。
――焼きたてのパン。
――かぼちゃのスープ。
ザインの黒い瞳が、少しだけ細くなる。
……美味しそうだな。
その感想が自然に出てきた事に、自分でも少し驚く。
リザリアやエルナ達の影響かもしれない。
食事を気にするようになったのは。
ザインは小さく息を吐く。
「……ここにしよう」
木扉を開ける。
からん、と小さな鈴が鳴った。
暖気。
パンの匂い。
スープの甘い香り。
宿内は静かだった。
暖炉がぱちぱち音を立てている。
そして受付には、小柄な栗鼠獣人の女性が立っていた。
ふわふわした栗色の髪。
丸い栗鼠耳。
大きな尻尾。
年齢はザインより少し上くらいだろうか。
彼女は笑顔で頭を下げる。
「いらっしゃいませ〜」
だが。
顔を上げた瞬間。
ぴたりと固まった。
仮面。
深く被ったフード。
黒外套。
明らかに普通じゃない冒険者。
しかも漂う空気が妙に静かで怖い。
栗鼠獣人の受付嬢の耳が、ぴくっと跳ねた。
「……っ」
だが。
彼女はすぐに表情を整えた。
流石は接客業だった。
「ぼ、冒険者の方ですね」
「よろしかったら、証明のプレートを見せてもらっても?」
少しだけ緊張した声。
ザインは黙って銀級プレートを取り出す。
鈍い銀色。
受付嬢の目が、一瞬で丸くなった。
「ぎ、銀級……!?」
耳がぴんと立つ。
尻尾までぶわっと膨らんだ。
さっきまでの警戒が、一気に驚きへ変わる。
「す、すみませんっ!」
「し、失礼しました!!」
慌てて頭を下げる。
ザインは少し困ったように首を振った。
「気にしてないです」
その声が予想より若くて。
受付嬢はまた少しだけ目を瞬かせた。
……若い。
銀級なのに。
しかも声が優しい。
怖い人じゃないのかも。
そんな事を考えているのが顔に出ていた。
やがて彼女は、ぱっと笑顔を作る。
「お、お部屋空いてますよ!」
「ご案内しますね!」
尻尾を揺らしながら、ぱたぱたと歩き出す。
ザインは静かにその後を追った。
暖炉の熱。
木の匂い。
かぼちゃスープの香り。
その全部が、妙に温かかった。
「冒険者さんなら、こちらですね!」
栗鼠獣人の受付嬢は、ぱたぱたと廊下を進みながら振り返った。
大きな尻尾が機嫌良さそうに揺れている。
最初の警戒は、もうほとんど消えていた。
銀級プレートの効果は大きい。
というより。
ザイン本人が、思ったより静かで若かったのもある。
宿の奥へ進む。
一般客用の部屋とは少し離れた場所。
静かな廊下。
外の雪音が微かに聞こえる。
受付嬢は一階奥の扉の前で立ち止まった。
「こちらです!」
鍵を開ける。
木扉がゆっくり開いた。
中は想像より広かった。
暖炉。
大きめの机。
武器を置く為の台座。
革鎧や外套を掛ける金具まで用意されている。
どう見ても、長期滞在する冒険者向けの部屋だった。
そして。
部屋奥には、小さな露天風呂まで付いている。
湯気が静かに立ち昇っていた。
ザインが少し目を瞬かせる。
受付嬢は、えへんと胸を張る。
「個室温泉付きなんですよ〜!」
「銀級以上の冒険者さんとか、長期護衛の人がよく使うお部屋です!」
「武器の手入れも出来るように、ちょっと広めになってまして〜」
確かに。
机の位置。
灯り。
水場。
全部が実用的だった。
冒険者をちゃんと理解して作られている。
ザインは静かに部屋を見回す。
暖かい。
静かだ。
……落ち着く。
その感覚が、少し不思議だった。
辺境街では、グリムヴァルドの家が帰る場所だった。
だが。
こういう“自分で選んだ宿”に泊まるのは久しぶりだった。
受付嬢はそんなザインを見ながら、少しだけほっとした顔をする。
どうやら気に入ってもらえたらしい。
「ご飯はどうされます?」
「まだ食堂開いてますよ〜」
「今日のかぼちゃスープ、美味しいです!」
耳をぴこぴこ動かしながら言う。
ザインは、入り口で見た献立を思い出した。
焼きたてのパン。
かぼちゃスープ。
湯気。
自然と腹が減っている事に気付く。
「……じゃあ、後で行きます」
「はいっ!」
受付嬢はぱっと笑った。
それから、少しだけ首を傾げる。
「そういえば、お名前聞いてもいいですか?」
ザインは少しだけ間を置く。
そして。
「ザインです」
短く答えた。
受付嬢は、その名前を繰り返すように小さく呟く。
「ザインさん、ですね!」
「私はミリィです!」
栗鼠耳が嬉しそうに揺れた。
「何かあったら呼んでくださいね!」
そう言い残し。
ミリィはぱたぱたと廊下を戻っていった。
扉が閉まる。
静寂。
暖炉の火が、小さく鳴る。
ザインはしばらく、その場へ立ったままだった。
湯気。
暖かな部屋。
柔らかい灯り。
静かな空気。
戦場とも。
辺境街とも違う。
“休む為の場所”だった。
その日は、久しぶりにゆっくり休んだ。
護衛任務の疲れ。
雪道の冷え。
張り詰めていた神経。
それらが、温泉街の静かな空気の中で少しずつ緩んでいく。
何よりありがたかったのは――個人用の風呂だった。
ザインは露天風呂の縁へ杖を立て掛ける。
仮面を外す。
冷たい空気が、火傷痕へ触れた。
それから。
右手で、左腕へ触れる。
淡い魔力光。
魔法義手が静かに解除されていく。
粒子みたいな光が崩れ。
失われた左肩だけが残った。
静かな湯気。
誰も居ない。
見られない。
気を遣わなくていい。
その事実に、少しだけ肩の力が抜ける。
ザインはゆっくり湯へ浸かった。
熱が身体へ広がる。
思わず、小さく息が漏れる。
「……あったか」
ぽつりと零れた声が、湯気へ溶けた。
湯へ浸かっていると。
ふと、昔の記憶が浮かぶ。
聖騎士団にいた頃。
あの頃も、任務帰りによく風呂へ入れられていた。
戦場帰り。
血塗れ。
泥だらけ。
まともに動けない時も多かった。
だから。
「ほらジン!!ちゃんと座ってって!!」
アリアが騒ぎながら背中を流してきたり。
「動かないでくださいねぇ……」
ベリアリアが困ったように笑いながら身体を洗ってくれたり。
そんな事が、よくあった。
湯気の向こう。
水色の毛並み。
大きな牛獣人の手。
騒がしい声。
優しい匂い。
思い出す。
思い出してしまう。
ザインは静かに目を閉じた。
湯の音だけが響く。
あの頃は。
痛かった。
苦しかった。
戦場は怖かった。
けれど。
今思い返すと。
確かに“家族みたいな時間”もあった。
アリアは、背中を流しながらいつも文句を言っていた。
「ジン細すぎ!!ちゃんと食べてる?!!」
とか。
「また傷増えてるし!!」
とか。
ベリアリアは、その横で困ったように笑う。
「アリアちゃん、あんまり強く擦ると痛いですよぉ」
そんな声。
そんな空気。
湯気の向こうに浮かぶ。
ザインは湯へ沈みながら、小さく息を吐いた。
もう戻れない。
分かっている。
皆も。
自分も。
変わってしまった。
それでも。
温かな記憶だけは、今も胸の奥へ残っていた。




