表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
欠けた少年の帰る場所  作者: 羽衣月
冒険者
96/197

宿

温泉街の夜は静かだった。


辺境街みたいな怒鳴り声も。


酔っ払いの喧嘩も少ない。


代わりに。


湯気が街へ薄く漂っている。


白い雪。


橙色の灯り。


木造建築。


どこか、時間がゆっくり流れているみたいだった。


ザインは石畳を一人歩く。


黒外套。


白髪。


仮面。


湯煙の中を進むその姿は、少しだけ浮いて見えた。


だが。


今は妙に落ち着いていた。


宿を探す。


そんな事をするのは久しぶりだった。


辺境街では、ほとんどグリムヴァルドの家へ帰っていた。


あそこが自然と“帰る場所”になっていたから。


だから今は少し新鮮だった。


知らない街。


知らない宿。


自分で泊まる場所を選ぶ感覚。


湯気の向こう。


ふと、一軒の宿が目に入る。


ギルドからは少し離れていた。


だが、その分静かだ。


木造二階建て。


暖かな灯り。


窓辺には小さな花。


派手ではない。


けれど落ち着いている。


そして。


入り口横へ、本日の食事が書かれた板が立て掛けられていた。


――焼きたてのパン。


――かぼちゃのスープ。


ザインの黒い瞳が、少しだけ細くなる。


……美味しそうだな。


その感想が自然に出てきた事に、自分でも少し驚く。


リザリアやエルナ達の影響かもしれない。


食事を気にするようになったのは。


ザインは小さく息を吐く。


「……ここにしよう」


木扉を開ける。


からん、と小さな鈴が鳴った。


暖気。


パンの匂い。


スープの甘い香り。


宿内は静かだった。


暖炉がぱちぱち音を立てている。


そして受付には、小柄な栗鼠獣人の女性が立っていた。


ふわふわした栗色の髪。


丸い栗鼠耳。


大きな尻尾。


年齢はザインより少し上くらいだろうか。


彼女は笑顔で頭を下げる。


「いらっしゃいませ〜」


だが。


顔を上げた瞬間。


ぴたりと固まった。


仮面。


深く被ったフード。


黒外套。


明らかに普通じゃない冒険者。


しかも漂う空気が妙に静かで怖い。


栗鼠獣人の受付嬢の耳が、ぴくっと跳ねた。


「……っ」


だが。


彼女はすぐに表情を整えた。


流石は接客業だった。


「ぼ、冒険者の方ですね」


「よろしかったら、証明のプレートを見せてもらっても?」


少しだけ緊張した声。


ザインは黙って銀級プレートを取り出す。


鈍い銀色。


受付嬢の目が、一瞬で丸くなった。


「ぎ、銀級……!?」


耳がぴんと立つ。


尻尾までぶわっと膨らんだ。


さっきまでの警戒が、一気に驚きへ変わる。


「す、すみませんっ!」


「し、失礼しました!!」


慌てて頭を下げる。


ザインは少し困ったように首を振った。


「気にしてないです」


その声が予想より若くて。


受付嬢はまた少しだけ目を瞬かせた。


……若い。


銀級なのに。


しかも声が優しい。


怖い人じゃないのかも。


そんな事を考えているのが顔に出ていた。


やがて彼女は、ぱっと笑顔を作る。


「お、お部屋空いてますよ!」


「ご案内しますね!」


尻尾を揺らしながら、ぱたぱたと歩き出す。


ザインは静かにその後を追った。


暖炉の熱。


木の匂い。


かぼちゃスープの香り。


その全部が、妙に温かかった。


「冒険者さんなら、こちらですね!」


栗鼠獣人の受付嬢は、ぱたぱたと廊下を進みながら振り返った。


大きな尻尾が機嫌良さそうに揺れている。


最初の警戒は、もうほとんど消えていた。


銀級プレートの効果は大きい。


というより。


ザイン本人が、思ったより静かで若かったのもある。


宿の奥へ進む。


一般客用の部屋とは少し離れた場所。


静かな廊下。


外の雪音が微かに聞こえる。


受付嬢は一階奥の扉の前で立ち止まった。


「こちらです!」


鍵を開ける。


木扉がゆっくり開いた。


中は想像より広かった。


暖炉。


大きめの机。


武器を置く為の台座。


革鎧や外套を掛ける金具まで用意されている。


どう見ても、長期滞在する冒険者向けの部屋だった。


そして。


部屋奥には、小さな露天風呂まで付いている。


湯気が静かに立ち昇っていた。


ザインが少し目を瞬かせる。


受付嬢は、えへんと胸を張る。


「個室温泉付きなんですよ〜!」


「銀級以上の冒険者さんとか、長期護衛の人がよく使うお部屋です!」


「武器の手入れも出来るように、ちょっと広めになってまして〜」


確かに。


机の位置。


灯り。


水場。


全部が実用的だった。


冒険者をちゃんと理解して作られている。


ザインは静かに部屋を見回す。


暖かい。


静かだ。


……落ち着く。


その感覚が、少し不思議だった。


辺境街では、グリムヴァルドの家が帰る場所だった。


だが。


こういう“自分で選んだ宿”に泊まるのは久しぶりだった。


受付嬢はそんなザインを見ながら、少しだけほっとした顔をする。


どうやら気に入ってもらえたらしい。


「ご飯はどうされます?」


「まだ食堂開いてますよ〜」


「今日のかぼちゃスープ、美味しいです!」


耳をぴこぴこ動かしながら言う。


ザインは、入り口で見た献立を思い出した。


焼きたてのパン。


かぼちゃスープ。


湯気。


自然と腹が減っている事に気付く。


「……じゃあ、後で行きます」


「はいっ!」


受付嬢はぱっと笑った。


それから、少しだけ首を傾げる。


「そういえば、お名前聞いてもいいですか?」


ザインは少しだけ間を置く。


そして。


「ザインです」


短く答えた。


受付嬢は、その名前を繰り返すように小さく呟く。


「ザインさん、ですね!」


「私はミリィです!」


栗鼠耳が嬉しそうに揺れた。


「何かあったら呼んでくださいね!」


そう言い残し。


ミリィはぱたぱたと廊下を戻っていった。


扉が閉まる。


静寂。


暖炉の火が、小さく鳴る。


ザインはしばらく、その場へ立ったままだった。


湯気。


暖かな部屋。


柔らかい灯り。


静かな空気。


戦場とも。


辺境街とも違う。


“休む為の場所”だった。


その日は、久しぶりにゆっくり休んだ。


護衛任務の疲れ。


雪道の冷え。


張り詰めていた神経。


それらが、温泉街の静かな空気の中で少しずつ緩んでいく。


何よりありがたかったのは――個人用の風呂だった。


ザインは露天風呂の縁へ杖を立て掛ける。


仮面を外す。


冷たい空気が、火傷痕へ触れた。


それから。


右手で、左腕へ触れる。


淡い魔力光。


魔法義手が静かに解除されていく。


粒子みたいな光が崩れ。


失われた左肩だけが残った。


静かな湯気。


誰も居ない。


見られない。


気を遣わなくていい。


その事実に、少しだけ肩の力が抜ける。


ザインはゆっくり湯へ浸かった。


熱が身体へ広がる。


思わず、小さく息が漏れる。


「……あったか」


ぽつりと零れた声が、湯気へ溶けた。


湯へ浸かっていると。


ふと、昔の記憶が浮かぶ。


聖騎士団にいた頃。


あの頃も、任務帰りによく風呂へ入れられていた。


戦場帰り。


血塗れ。


泥だらけ。


まともに動けない時も多かった。


だから。


「ほらジン!!ちゃんと座ってって!!」


アリアが騒ぎながら背中を流してきたり。


「動かないでくださいねぇ……」


ベリアリアが困ったように笑いながら身体を洗ってくれたり。


そんな事が、よくあった。


湯気の向こう。


水色の毛並み。


大きな牛獣人の手。


騒がしい声。


優しい匂い。


思い出す。


思い出してしまう。


ザインは静かに目を閉じた。


湯の音だけが響く。


あの頃は。


痛かった。


苦しかった。


戦場は怖かった。


けれど。


今思い返すと。


確かに“家族みたいな時間”もあった。


アリアは、背中を流しながらいつも文句を言っていた。


「ジン細すぎ!!ちゃんと食べてる?!!」


とか。


「また傷増えてるし!!」


とか。


ベリアリアは、その横で困ったように笑う。


「アリアちゃん、あんまり強く擦ると痛いですよぉ」


そんな声。


そんな空気。


湯気の向こうに浮かぶ。


ザインは湯へ沈みながら、小さく息を吐いた。


もう戻れない。


分かっている。


皆も。


自分も。


変わってしまった。


それでも。


温かな記憶だけは、今も胸の奥へ残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ