温泉街
温泉街へ辿り着いた頃には、すっかり夜になっていた。
雪が降っている。
白い息。
石畳の隙間から立ち昇る湯気。
遠くで聞こえる、宿屋の笑い声。
硫黄の匂いが、冷えた空気へ薄く混ざっていた。
商隊の護衛は無事終了。
商人達は何度も礼を言いながら、それぞれ宿へ散っていく。
カティアのパーティも同じだった。
「じゃあ、また」
長身の弓使いが静かに言う。
雪灯りに照らされた茶髪。
灰青色の瞳。
ザインは軽く頷いた。
「はい」
短い別れ。
けれど以前より空気は柔らかい。
カティアは数秒だけザインを見ていた。
銀級になっても。
相変わらず危うい。
そんな事を考えているみたいに。
やがて彼女も仲間達と共に去っていく。
残されたザインは、静かに温泉街ギルドへ向かった。
湯煙の向こう。
木造建築の大きな建物。
辺境街のギルドより落ち着いた空気だった。
酒場の喧騒も、どこか穏やかだ。
扉を開ける。
暖気。
酒と料理の匂い。
数人の冒険者が視線を向ける。
ザインは気にせず受付へ向かった。
一応、長期滞在になる。
こちらのギルドマスターへ顔を通しておく必要があった。
受付には、人間の女性が座っていた。
栗色の髪。
眠たげに垂れた目。
ゆるく編み込まれた髪が肩へ流れている。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。
どこか気の抜けた空気を纏った受付嬢だった。
「はいはぁ〜い……温泉街ギルドですよぉ〜」
妙に間延びした声。
ザインは銀級プレートを取り出す。
受付嬢の目が少しだけ開いた。
「おぉ〜……銀級ぅ〜」
「若いですねぇ〜」
のんびりした声のまま、プレートとザインを交互に見る。
それから、ふにゃりと笑った。
「ラドヴィスさんから話は聞いてますよぉ〜」
「辺境街から銀級の魔術師さん来るってぇ〜」
ザインが少し目を瞬かせる。
……話早いな。
ラドヴィスらしい。
受付嬢は立ち上がる。
「ギルドマスターのお部屋に案内しますねぇ〜」
木造廊下を歩く。
外より暖かい。
床板が静かに軋む。
ザインは、ふと窓の外を見る。
雪。
湯煙。
灯り。
静かな街だった。
リザリアが気に入るのも分かる気がする。
やがて。
受付嬢が一枚の扉を軽く叩いた。
「ギルドマスターぁ〜」
「辺境街からのお客さんですよぉ〜」
「入りなさい」
落ち着いた女の声。
受付嬢が扉を開ける。
室内は暖かかった。
書類棚。
魔導灯。
湯気の立つ茶器。
そして。
机の向こうに、一人の女性が座っていた。
狐獣人。
長い赤金色の髪。
鋭い金の瞳。
だが空気は柔らかい。
理知的で、どこか包容力のある雰囲気。
彼女はザインを見ると、小さく目を細めた。
「ようこそ」
「ラドヴィスから話は聞いているよ」
その声音は穏やかだった。
けれど。
ギルドマスター特有の“人を見る目”があった。
一瞬で。
ザインの疲労も。
危うさも。
戦場の匂いも見抜いてしまうような視線。
「エルカ・ファルステアです、ザイン君」
狐獣人の女は、静かにそう名乗った。
長い赤金色の髪が、魔導灯の光を受けて揺れる。
金の瞳。
柔らかな声。
けれど、その奥にはギルドマスター特有の鋭さがあった。
人を見る目。
冒険者の疲労も。
虚勢も。
隠し事も。
全部見抜いてしまうような視線。
ザインは軽く頭を下げる。
「ザインです」
「知ってるよ」
エルカは小さく笑った。
「ラドヴィスから結構細かく聞いてる」
「辺境街の問題児だって」
ザインが少しだけ目を瞬かせる。
……言いそう。
ラドヴィスなら。
エルカは書類を閉じながら続けた。
「しばらく滞在するとは聞いてるけど、宿は決まっているのかい?」
ザインは少し考えるように視線を動かす。
「まだです」
「そうか」
エルカは椅子へ深く腰掛け直した。
ふわりと大きな狐尾が揺れる。
「銀級特権で、お得に宿も紹介できるけど?」
穏やかな声。
けれど。
その金色の瞳は、静かにザインを観察していた。
仮面。
細い身体。
白い髪。
そして。
隠し切れていない疲労。
エルカは気付いていた。
この少年は、“休む場所”に慣れていない。
多分。
宿を選ぶ事すら、少し苦手だ。
ザインはそんな視線に気付いているのかいないのか、小さく首を振った。
「いえ」
「せっかくなので、宿は自分で探します」
その返答に。
エルカは数秒だけザインを見つめていた。
それから、小さく笑う。
「そっか」
否定はしない。
押し付けもしない。
ただ。
少しだけ柔らかい声で続けた。
「滞在場所が決まったら、受付嬢に教えといてね」
「何かあった時、こっちから探せるように」
事務的な言葉。
けれど。
その実、“無事でいてほしい”という響きが混ざっていた。
ザインは小さく頷く。
「……はい」
エルカは、その返事を聞きながら静かに目を細める。
ラドヴィスが気に掛ける理由が、少し分かった気がした。
強い。
かなり。
けれど。
妙に放っておけない空気をしている。
まるで。
傷付いたまま歩き続けている子供みたいに。
エルカは机へ肘をつきながら、静かにザインを見ていた。
金色の瞳。
ギルドマスターとしての視線。
穏やかだが、甘くはない。
やがて。
小さく息を吐く。
「あと……申し訳ないけど」
狐耳が僅かに揺れる。
「顔だけは見せてちょうだいね」
「一応、身元確認は必要だから」
事務的な理由。
当然の確認。
けれど声音は柔らかかった。
ザインは数秒だけ黙る。
それから。
静かに仮面へ手を掛けた。
留め具を外す。
黒い仮面が、ゆっくり外される。
その下から現れたのは。
白い肌。
黒い瞳。
まだ若さの残る顔立ち。
そして。
左側へ深く残る、雷傷の火傷痕。
皮膚が歪み、焼け爛れた跡が頬から首筋へ走っていた。
室内が静かになる。
暖かな執務室の空気だけが、妙に遠い。
エルカの金色の瞳が、ほんの僅かに揺れた。
ラドヴィスから話は聞いていた。
若い銀級。
無詠唱の風魔術師。
妙に危うい少年。
だが。
傷の事までは聞いていない。
だからこそ。
実際に目にした瞬間、言葉を失った。
年齢に似合わない傷。
雷で焼かれたような痕。
それが、“昔の怪我”ではなく。
人生そのものみたいに刻まれている。
エルカは一瞬だけ怯む。
ギルドマスターとしてではなく。
一人の大人として。
それほど痛々しかった。
ザインは何も言わない。
慣れている。
そういう目を向けられる事に。
だからこそ。
その静けさが余計苦しい。
エルカは小さく眉を寄せる。
そして。
ぽつりと。
「……可哀想にね」
その声には、同情というより。
自然に零れてしまった痛みが混ざっていた。
ザインの黒い瞳が、ほんの少しだけ揺れる。
可哀想。
多分。
あまり向けられ慣れていない言葉だった。
エルカは、それ以上踏み込まなかった。
代わりに、静かに微笑む。
「温泉街で、ゆっくり休んでちょうだい」
「ここは辺境より、少しだけ時間の流れが遅いから」
その声音は穏やかだった。
湯気みたいに柔らかい。
それから。
少しだけ冗談っぽく続ける。
「まぁ、たまには仕事しに来てくれるとありがたいんだけど」
「銀級魔術師は貴重だからね」
ザインは仮面を付け直しながら、小さく息を吐いた。
そして。
ほんの少しだけ困ったように笑う。
「……考えておきます」
その返事を聞いて。
エルカは静かに目を細めていた。
強い。
かなり。
けれど……




