温泉街へ
リザリアが去ってから数日。
辺境街には、いつもの空気が戻っていた。
冒険者達の怒鳴り声。
酒場の喧騒。
依頼書を剥がす音。
だが。
ザインの周囲だけは、どこか静かだった。
リザリアが居ない。
それだけで、妙に空間が広く感じる。
ギルド酒場の席へ座っても、尻尾で巻き取ってくる相手はいない。
無理やり酒を勧めてくる声も。
頭をぐしゃぐしゃ撫で回す大きな手も無い。
ザインは依頼掲示板の前へ立つ。
黒外套。
銀級プレート。
以前より、周囲の視線が増えていた。
銀級。
その響きは辺境では重い。
だがザイン本人は、あまり実感が無かった。
淡々と依頼書を眺める。
討伐。
採集。
街道警備。
そんな紙束の中で。
ふと、一枚の依頼書へ視線が止まった。
――温泉街までの護衛任務。
ザインの黒い瞳が、僅かに細まる。
依頼内容は単純だった。
商隊護衛。
数日行程。
冬前最後の輸送。
危険度はそこまで高くない。
温泉街。
その文字を見た瞬間。
脳裏へ雪景色が浮かぶ。
湯気。
硫黄の匂い。
静かな宿。
そして。
「雪が深くなる頃には戻る」
リザリアの声。
ザインは、しばらく依頼書を見つめていた。
……丁度いいかもしれない。
まだリザリアが来るには早い。
けれど。
少し早く行って、温泉街で過ごすのも悪くない。
あのリザードマンならきっと笑う。
「やっと休み方覚えたか相棒!!」
とか。
そんな事を言いそうだった。
ザインは静かに依頼書を剥がす。
紙の擦れる音。
その瞬間。
近くで書類整理をしていたエルナが顔を上げた。
「……あれ?」
ぱたぱたと小走りで近寄ってくる。
ふわりと甘いお茶の匂い。
エルナは依頼書を見るなり、少し目を丸くした。
「温泉街の護衛依頼ですか?」
「はい」
ザインは軽く頷く。
「丁度良いかなって」
「……リザリアさんとの約束ですか?」
ザインは少しだけ目を瞬かせる。
それから、ほんの僅かに笑った。
「まぁ、そんな感じです」
その小さな変化を見て。
エルナの胸が少しだけ温かくなる。
最近、ザインは少し変わった。
以前より。
ちゃんと“誰かを待つ顔”をする。
エルナは依頼書を受け取り、内容を確認しながら言う。
「数日掛かりますね」
「冬前だから、街道も冷えますし……」
言葉が少し止まる。
それから。
どこか心配そうに続けた。
「ちゃんと休んできてくださいね?」
ザインは少し困ったように笑う。
「皆そう言いますね」
「皆心配してるんですよ」
エルナの声は柔らかかった。
まるで、無茶する弟へ言い聞かせるみたいに。
ザインは返事をせず、小さく視線を逸らす。
その反応に、エルナは少しだけ苦笑した。
そこへ。
「……温泉街ですか」
静かな声。
振り返る。
ギルド奥。
書類束を抱えたラドヴィス・アーケインが立っていた。
銀縁眼鏡の奥の視線が、ザインの依頼書へ向く。
「ええ」
「護衛任務です」
ラドヴィスは数秒、黙ってザインを見る。
黒外套。
細い身体。
銀級プレート。
その奥に隠れている疲労まで見透かすみたいに。
やがて。
細く息を吐く。
「……まぁ、丁度良いでしょう」
「最近の君、少し働き過ぎでしたし」
ザインは少し首を傾げる。
「そうですか?」
「自覚が無い辺りが厄介なんですよ」
ラドヴィスは淡々と言った。
それから、書類束を抱え直しながら続ける。
「温泉街なら比較的安全です」
「少なくとも、この辺境よりは休める」
「銀級になった以上、無理に潰れられても困ります」
事務的な言い方。
だが。
その奥にある“死ぬな”という感情を、ザインは少しだけ感じ取っていた。
ラドヴィスは最後に小さく付け加える。
「あと」
「リザリア君を待たせ過ぎると、帰還後うるさいですよ」
その瞬間。
ザインがほんの少しだけ吹き出した。
本当に少しだけ。
けれど。
エルナはその顔を見て、静かに目を細めていた。
◇
グリムヴァルドの家は、相変わらず静かだった。
薬品の匂い。
乾燥した薬草。
古い木材。
淡い魔力灯の青白い光。
外では雪が降り始めている。
ザインは扉を開け、慣れた動きで外套の雪を払った。
その音に反応するように、工房奥から低い声が響く。
「……帰ったか」
長椅子へ腰掛けていた褐色のエルフが、本から視線を上げる。
長い銀髪。
浅黒い肌。
金色の瞳。
グリムヴァルドはザインを見ると、静かに目を細めた。
「おかえり」
その声音は自然だった。
気負いも無い。
まるで毎日の挨拶みたいに。
ザインは少しだけ視線を逸らす。
「ただいま」
短い返事。
それだけ。
けれど。
この家では、それで十分だった。
ザインは仮面を外し、いつもの椅子へ腰掛ける。
黒外套を脱ぐ動きにも、生活の癖が染み付いていた。
ここはもう、“泊めてもらっている場所”ではない。
帰る場所になっている。
グリムヴァルドはそんなザインを見ながら、小さく息を吐いた。
「今日は早いな」
「護衛依頼受けた」
「温泉街」
その言葉に。
グリムヴァルドの金色の瞳が、静かに細くなる。
「……なるほど」
「リザリアとの約束か」
ザインは少しだけ目を瞬かせる。
「分かる?」
「お主、分かりやすすぎる」
即答だった。
グリムヴァルドは机へ置かれた薬草束を弄びながら続ける。
「まぁ、悪くない」
「しばらく滞在してこい」
「お主、最近また働き過ぎだった」
ザインは少し困ったように笑う。
「皆そう言う」
「皆、お主が思ってるよりお主を見てる」
達観した声だった。
責めるでもない。
諭すでもない。
ただ事実を置くみたいに。
グリムヴァルドは長椅子へ深く凭れた。
「お主は、生き延びる事には慣れてる」
「でも」
金色の瞳が静かにザインを見る。
「生きる事は、あんまり上手くない」
ザインは返事をしなかった。
静かな沈黙。
外の雪音だけが遠い。
グリムヴァルドは続ける。
「温泉街は悪くないぞ」
「湯は身体を緩める」
「人間は、緩まないと壊れる」
その言葉は妙に自然だった。
まるで。
何人も壊れる人間を見てきたみたいに。
ザインは視線を落とす。
黒い瞳。
静かな目。
グリムヴァルドはそんな少年を見ながら、小さく笑った。
「まぁ、お主の場合」
「完全に壊れてから拾ったから、今更かもしれんが」
ザインが少しだけ目を瞬く。
その反応に、グリムヴァルドは肩を竦めた。
「あの時のお主、酷かったぞ」
「血塗れで」
「片腕で」
「獣みたいな目してた」
「……覚えてない」
「だろうな」
即答だった。
「だからこっちが覚えてればいい」
さらりと言う。
まるで当然みたいに。
ザインは何も言えなかった。
グリムヴァルドは机の引き出しから小瓶を取り出し、放る。
透明な回復薬。
ザインが反射的に受け取る。
「持ってけ」
「お主、自分じゃ限界まで薬飲まないだろ」
「……ありがとう」
◇
商隊は、雪混じりの街道をゆっくり進んでいた。
灰色の空。
冷たい風。
荷馬車の車輪が、凍り始めた土を軋ませる。
冬前最後の輸送。
温泉街へ向かう商人達にとって、この護衛は命綱みたいなものだった。
そして今回、その護衛を合同で請け負ったのが――。
「……久しぶりね」
馬車横。
長身の女が、静かにザインを見ていた。
茶髪。
灰青色の瞳。
軽装革鎧。
背には長弓。
カティア・ルーベル。
以前。
スタンピードの最中、狼型魔獣の爪からザインに救われた弓使いだった。
あの時。
飛び掛かった狼の爪が、彼女の喉元へ届く寸前。
薄緑色の風が走った。
次の瞬間には、狼の首が飛んでいた。
鋭く。
静かで。
綺麗な斬撃だった。
カティアは今でも覚えている。
血飛沫の向こう。
割れた仮面。
白い髪。
火傷痕。
黒い瞳。
あまりにも静かな目。
ザインは軽く頭を下げる。
「はい、久しぶりです」
短いやり取り。
けれど以前より、空気は少し柔らかかった。
カティアのパーティメンバー達も、ザインを見ると軽く手を上げる。
「よっ、銀級」
「昇格早かったな」
「まぁでも納得だわ」
驚きは薄い。
以前の依頼で、既に見ている。
この少年が、見た目に反して異常な実力を持っている事を。
護衛旅は静かに始まる。
街道脇の森は暗い。
冬を前に、魔獣達も飢え始めていた。
その気配は、すぐ現れた。
低い唸り声。
藪の揺れる音。
商人達の顔が強張る。
「……狼か」
カティアが静かに弓へ手を掛ける。
雪を踏み潰しながら、魔獣狼が現れた。
一匹。
二匹。
奥にも居る。
飢えた目。
血走った牙。
空気が張り詰める。
その時。
ザインが静かに杖を構えた。
長杖。
装飾は少ない。
だが、握られた瞬間に空気が変わる。
詠唱は無い。
魔力だけが静かに収束していく。
次の瞬間。
――ヒュン。
薄緑色の風刃が走った。
鋭い光。
空気を裂く音。
一匹目の狼の首が滑り落ちる。
遅れて血が噴き出した。
二匹目が飛び出す。
ザインの杖先が僅かに動く。
また風が走る。
薄緑色の刃。
狼の胴体が斜めに裂けた。
雪へ血飛沫が散る。
狼達が怯む。
だが、もう遅い。
ザインの周囲で風が唸る。
薄緑色の光が幾筋も走った。
木々が裂ける。
狼の身体が、次々地面へ転がった。
数秒。
本当に数秒だった。
静寂。
雪だけが静かに降っている。
ザインは何事も無かったみたいに杖を下ろした。
呼吸一つ乱れていない。
カティアのパーティメンバーの一人が、感心したように口笛を吹く。
「相変わらず速ぇな」
「銀級になる訳だわ」
軽い調子。
驚愕というより納得。
既に“そういう物”として認識されている空気だった。
カティアは何も言わなかった。
ただ静かにザインを見ていた。
……やっぱり強い。
以前より、更に。
薄緑色の風刃は美しかった。
綺麗過ぎるくらいに。
ザインは狼の死骸を一瞥すると、小さく息を吐いた。
「……先、進みましょう」
その声だけが、妙に若かった。




