しばしの別れ
リザリアが手紙を読んでいる姿を見たのは、その日が初めてだった。
いつもの酒場。
昼下がり。
冒険者達の笑い声。
依頼書の張り替え。
そんな騒がしい空気の中で。
リザリアだけが妙に静かだった。
長身のリザードマンは、酒も飲まず、机へ肘をついたまま紙切れを眺めている。
黄色い瞳が細い。
険しい。
普段の豪快さが嘘みたいに。
ザインは依頼帰りだった。
雪混じりの外気を纏ったまま、ギルドへ入る。
「……リザリアさん?」
声を掛けると。
リザリアは、はっと顔を上げた。
それからいつものように笑おうとして――少し失敗した。
「おう、相棒」
笑い方が硬い。
ザインは気付いたが、踏み込まなかった。
代わりに向かいへ座る。
エルナが奥から温かい飲み物を持ってきた。
最近の彼女は、以前より明らかにザインへ優しかった。
自然に。
当たり前みたいに。
蜂蜜入りのミルクが置かれる。
「冷えてますから」
「……ありがとうございます」
そのやり取りを。
リザリアは面白くなさそうに眺めていた。
尻尾が、不機嫌そうに床を叩く。
「なんか最近、距離近くねぇ?」
「そうですか?」
「そうですよー」
エルナは悪びれもせず笑った。
ザインは少し困った顔をする。
その反応が更に面白くない。
リザリアは頬杖をついたまま、じとっとザインを見る。
「相棒、お前ちょろいからなぁ」
「そうですかね……」
「自覚ねぇのが一番危ねぇ」
ぶつぶつ言いながら、リザリアは視線を手紙へ落とした。
そして。
数秒。
沈黙。
酒場の喧騒が、妙に遠く感じる。
やがて。
リザリアは低く息を吐いた。
「……族長が死んだ」
ザインの黒い瞳が、静かに上がる。
リザリアは笑わなかった。
「里から呼び戻しだ」
短い言葉。
だが、その重さは十分伝わる。
リザリアの種族にとって、族長とは絶対だ。
戦士達の柱。
帰る場所そのもの。
ザインは静かに聞く。
「……帰るんですか」
「ああ」
リザリアは頬を掻いた。
珍しく歯切れが悪い。
「まぁ、葬式とか色々な」
「しばらく留守にする」
その言葉に。
ザインは少しだけ視線を伏せた。
ほんの僅か。
だが、リザリアは見逃さない。
長い付き合いだった。
この少年は、寂しい時ほど平気な顔をする。
だから。
リザリアはわざと軽い声を出した。
「おい、そんな顔すんな」
「してません」
「してる」
即答。
それから、リザリアはにやりと笑う。
ようやく少しだけ、いつもの顔だった。
「だから約束しようぜ」
「……約束?」
「ああ」
リザリアは酒瓶を持ち上げるみたいな気軽さで言った。
「前行った温泉街、覚えてるか?」
ザインの脳裏へ、湯気の立つ雪景色が過る。
静かな宿。
硫黄の匂い。
冬の白い空。
リザリアは続けた。
「雪が深くなる頃には戻る」
「だから、その時はあそこ来い」
「待ち合わせだ」
ザインは少し目を瞬く。
リザリアは尻尾を揺らしながら笑った。
「俺がいねぇ間に相棒取られても面白くねぇしな」
その瞬間。
エルナが苦笑した。
「まだ言ってるんですかそれ」
「当たり前だろ」
「相棒は俺のだ」
「物みたいに言わないでください」
ザインが呆れたように返す。
けれど。
その空気は、どこか温かかった。
リザリアは笑う。
豪快に。
いつものように。
だが。
その黄色い瞳の奥には、僅かな不安が沈んでいた。
帰る場所。
族長の死。
変わってしまう里。
そして。
置いていくには危う過ぎる、この少年。
出発の日は、曇り空だった。
北風が強い。
石畳の隙間へ、薄く積もった雪が白く残っている。
冬の匂いだった。
リザリアは既に旅装だった。
分厚い外套。
腰へ提げた二本の巨大な曲刀。
赤銅色の尾が、ゆっくり揺れている。
いつもなら酒瓶を持っている手には、今日は里への供物らしい包みがあった。
ギルド前には冒険者達が集まっている。
「おーい!!死ぬなよー!!」
「族長の葬式で暴れんなよ!!」
「だから暴れねぇって言ってんだろ!!」
リザリアが牙を見せて怒鳴り返す。
笑い声が起きる。
けれど。
その空気の奥には、どこか重さがあった。
族長の死。
それは、リザードマン達にとって“帰る場所”の変化そのものだ。
ザインはギルド入口近くで静かに立っていた。
黒外套。
白髪。
仮面。
雪混じりの風の中でも、相変わらず静かな姿。
リザリアはそんな相棒を見るなり、鼻を鳴らした。
「なんだその顔」
「別に」
「嘘つけ」
即答。
太い尾が、ばしんとザインの脚へ叩き付けられる。
「痛っ」
「しけたツラすんな」
「数ヶ月だぞ」
ザインは視線を逸らした。
その反応を見て、リザリアは少しだけ目を細める。
……ほんと分かりやすくなったな。
昔なら。
もっと無表情だった。
誰かが居なくなる事にも、慣れ切った顔をしていた。
今は違う。
ちゃんと寂しそうな顔をする。
それが少し嬉しくて。
少し怖い。
その時だった。
「……二人とも」
低く落ち着いた声。
ギルドの奥から、一人の男が歩いてくる。
長い銀髪。
細い銀縁眼鏡。
濃紺の魔術衣。
静かな威圧感を纏った男。
辺境街冒険者ギルド――ギルドマスター。
ラドヴィス・アーケイン。
周囲の冒険者達が、自然と道を空けた。
ラドヴィスは書類束を片手にしたまま、ザインとリザリアの前へ立つ。
銀縁眼鏡の奥。
疲れた色をした瞳が、二人を静かに見た。
「正式な昇格通達です」
淡々とした声。
だが、その声音には僅かな誇らしさが混じっていた。
ラドヴィスは懐から二つの布包みを取り出す。
一つをザインへ。
もう一つをリザリアへ放った。
反射的に受け取る。
硬い感触。
包みを開く。
中に入っていたのは、鈍く光る銀色の認識票だった。
銀級。
周囲がどよめく。
「はぁ!?二人ともかよ!!」
「いやまぁ納得ではあるが……!」
「狼災害の功績だろ、あれ」
銀級。
それは都市単位で名が通り始める領域。
上級冒険者。
一人前。
ザインは静かに銀プレートを見つめていた。
黒い瞳。
静かな顔。
喜びも驚きも薄い。
まるで。
“生き残った結果”を受け取っているみたいだった。
一方。
リザリアは数秒黙ったあと――。
「おぉー!!」
豪快に笑った。
「やっとかよ!!」
そのままザインの肩へ腕を回す。
「聞いたか相棒!!俺ら銀級だぞ!!」
「重いです」
「めでてぇんだからいいだろ!!」
リザリアは嬉しそうだった。
本当に。
だが。
ラドヴィスは、その横顔を静かに見ていた。
長い付き合いだ。
分かる。
このリザードマンは今、無理やり明るくしている。
里へ帰る不安を。
族長を失った喪失感を。
騒がしさで押し流そうとしている。
だからラドヴィスは、何も言わない。
代わりに、視線をザインへ向ける。
「……本来なら」
低い声。
「君くらいの年齢の子供は、銀級になる前に酒場で馬鹿騒ぎしているものなんですがね」
ザインが少しだけ目を瞬かせる。
ラドヴィスは続けた。
「まぁ、今更ですか」
「君は最初から妙に戦場慣れしていましたし」
その言葉に。
ザインの肩が、ほんの僅かに止まる。
ラドヴィスは見逃さない。
だが。
それ以上は踏み込まない。
踏み込めば壊れる境界線を知っている大人の目だった。
代わりに。
銀級プレートを軽く指で叩く。
「死なないでくださいよ、銀級殿」
「ギルドとしては、かなり期待しているので」
冗談みたいな口調。
けれど。
“これ以上壊れるな”という響きが、僅かに混ざっていた。
ザインは小さく目を伏せる。
「……はい」
短い返事。
それだけだった。
リザリアが、その空気を吹き飛ばすみたいに笑う。
「いやぁこれでますます相棒手放せなくなったなぁ!!」
「だから物みたいに言わないでください」
「銀級の魔術師とか超高級品だろ」
「最低ですねその言い方」
エルナが呆れたように笑う。
けれど。
その視線はどこか優しかった。
銀級。
名誉。
強さの証。
それなのに。
エルナには、それが少しだけ冷たく見える。
この子達は。
傷付いて。
削れて。
それでも前へ進いた結果として、これを手にしている。
リザリアはそんな空気を振り払うように、ぐしゃぐしゃとザインの白髪を掻き回した。
「だからまぁ、その間」
黄色い瞳が細くなる。
「お前も温泉街堪能しとけ」
「……堪能?」
「ああ」
「湯ぃ入って、飯食って、だらだらしてろ」
「戦場みてぇに生きんな」
ザインは少し困ったように笑う。
「難しい事言いますね」
「出来ねぇなら練習しろ」
リザリアは牙を見せた。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「雪が深くなる頃には戻る」
「だから待ってろ」
その声は低かった。
戦士の声。
約束を置いていく声だった。
ザインは数秒黙り。
それから、小さく頷く。
「……はい」
その返事を聞いて。
リザリアは満足そうに鼻を鳴らした。
「よし」
「じゃあ行ってくるわ、相棒」
振り返る。
長身の背中。
赤銅色の鱗。
雪混じりの風の中でも、妙に堂々としていた。
そのまま歩き出し――。
数歩進んだところで、ふと思い出したように振り返る。
そして。
エルナへ向かって指を差した。
「あと受付嬢」
「はい?」
「相棒取るなよ」
「まだ言ってるんですか」
エルナが呆れたように笑う。
ザインは外套の奥で溜息を吐いた。
リザリアは豪快に笑う。
その笑い声を最後に。
長身のリザードマンは、雪の降り始めた街道の向こうへ消えていった。
残されたザインは、しばらくその背中が消えた方向を見ていた。
右手の中。
冷たい銀級プレートだけが、静かに重みを持っていた。




