発覚
静かな朝だった。
昨夜までの喧騒が嘘みたいに。
宿舎の廊下から聞こえるのは、遠くの足音と、誰かが欠伸をする声くらい。
窓から差し込む朝日が、部屋を薄く照らしていた。
ザインは椅子へ座ったまま、静かに息を吐く。
仮面を外す。
金属の擦れる小さな音。
続いて、左腕へ巻いていた偽装用の包帯を解いていく。
露わになる無い左腕。
そして、その付け根へ刻まれた古い傷跡。
長い戦いの痕。
血。
泥。
乾ききった黒い汚れ。
シャツを脱ぐと、鍛えられた身体には無数の傷が走っていた。
斬傷。
雷の火傷。
牙の跡。
新しいものと古いものが混ざっている。
ザインは濡らした布を取り、黙々と身体を拭き始めた。
本当は風呂へ入りたかった。
だが、共同浴場しかない。
今の姿を人へ見られるのは避けたい。
特に左腕は。
義手そのものより、“その先が無い”という事実を見られる方が嫌だった。
布が肩を滑る。
ぴたり、と動きが止まる。
……疲れた。
戦闘。
酒場。
騒ぎ。
笑い声。
慣れない空気。
全部まとめて押し寄せてくる。
椅子へ深く腰掛けたまま、ザインは目を閉じた。
布を持った手が、ゆっくり下がる。
眠気。
酷く重い。
少しだけ。
少しだけ休むつもりだった。
朝日が、白い髪を淡く照らす。
無防備なまま。
傷だらけの身体を晒したまま。
ザインは、そのまま静かに眠ってしまった。
――数分後。
こんこん。
小さなノック音。
返事はない。
廊下側で、エルナが困ったように首を傾げていた。
両手には木製の盆。
湯気の立つスープと、焼きたてのパン。
「……ザインさん?」
昨夜、かなり疲れていた。
だから朝食くらいは持って行こうと思ったのだ。
返事が無い。
寝ているのだろうか。
エルナは少し迷い――。
「失礼、しますね……?」
そっと扉を開けた。
了解、そこは消した方がザインの「現実感」が強くなるな。
“魔族化っぽい異形”より、
純粋に戦争と欠損で壊れた身体
の方が今の空気に合ってる。
じゃあこんな感じやな。
⸻
扉が、静かに開く。
「……失礼します」
エルナは遠慮がちに部屋へ入った。
両手には朝食の木盆。
焼きたてのパンと、温かなスープ。
だが。
二歩ほど進んだところで、足が止まる。
「……え」
朝日が、部屋へ差し込んでいた。
その中で。
ザインは椅子へ凭れたまま眠っている。
上裸。
白い髪。
伏せられた睫毛。
年齢相応にも見える、幼さの残る顔。
けれど。
身体だけが違った。
無数の傷。
古い斬傷。
裂傷。
火傷。
何度も治って、また壊れた痕。
冒険者に傷は付き物だ。
エルナだって分かっている。
だが。
これは、普通じゃない。
まるで。
生き残る為だけに削れ続けた身体だった。
そして。
エルナの視線が、左側で止まる。
「……っ」
左腕が、無かった。
肩先から先。
そこにあるはずのものが存在しない。
包帯の隙間から見える古い縫合痕。
皮膚の引き攣れ。
失われた時間の痕跡。
昨夜。
彼は普通に左腕を動かしていた。
だから気付かなかった。
違う。
気付かせなかったのだ。
彼自身が。
エルナは無意識に、木盆を抱える手へ力を入れていた。
胸の奥が痛む。
昨夜。
あの子は笑っていた。
リザリアに尻尾で巻かれて。
困った顔をして。
温かいミルクを飲んで。
普通の少年みたいに。
なのに。
その裏で。
こんな身体をしていた。
エルナの視線が、首筋へ向く。
火傷痕。
幼い顔に似合わない傷。
何があったのかは分からない。
けれど。
酷い目に遭ってきた事だけは、分かった。
エルナは6人兄弟の長女だった。
だから、分かってしまう。
この子は。
きっとずっと。
平気な顔を覚え過ぎている。
誰にも迷惑をかけないように。
誰にも心配をかけないように。
痛くても。
怖くても。
大丈夫な顔をしてきた。
静かに。
そっと。
エルナは机へ木盆を置く。
かちゃん。
小さな音。
その瞬間。
ザインの肩が微かに震えた。
「――っ」
反射だった。
眠ったまま。
右手が腰へ伸びる。
武器を探す動き。
戦場の癖。
エルナの瞳が、小さく揺れた。
ザインの瞳が、ゆっくり開く。
反射的に身体が動いた。
椅子を鳴らしながら立ち上がり、ベッド脇へ放っていた外套を掴む。
ばさっ。
隻腕の身体を隠すように肩へ羽織る。
だが。
遅かった。
エルナは、もう見てしまっていた。
傷だらけの身体を。
火傷痕を。
そして。
存在しない左腕を。
数秒。
部屋へ沈黙が落ちる。
朝日だけが静かに差し込んでいた。
ザインは視線を逸らしたまま、小さく息を吐く。
「……見ちゃいましたか」
その声は、驚くほど静かだった。
怒っているわけでもない。
責めるわけでもない。
ただ。
少しだけ困ったような声。
エルナは何も言えなかった。
昨夜まで。
彼は普通に笑っていた。
ミルクを飲んで。
リザリアに巻き付かれて。
年相応の少年みたいに。
なのに今は。
外套を握る右手だけが、少し強張っている。
隠したかったのだ。
きっと。
ずっと。
ザインは視線を落としたまま、ぽつりと呟く。
「……だから共同浴場、嫌だったんですよね」
冗談みたいに言う。
軽く。
気を遣わせないように。
それが余計に痛々しかった。
エルナはゆっくりと首を振る。
「……ごめんなさい」
「勝手に入るつもりじゃなかったんです」
「朝ご飯、持ってきただけで……」
机の上。
まだ湯気の残るスープ。
焼きたてのパン。
ザインの視線がそちらへ向く。
そして、小さく苦笑した。
「エルナさんらしい」
「お姉ちゃんって感じします」
「……え」
「なんか、世話焼きだから」
エルナの瞳が、少しだけ丸くなる。
こんな状況なのに。
この子はまだ、相手を安心させるような事を言う。
胸が締め付けられた。
エルナはゆっくり、ザインへ近付く。
だが視線は傷へ向けない。
無くなった左腕も見ない。
代わりに。
いつも通りの顔で、静かに言った。
「……パン、冷めちゃいますよ?」
「せっかく焼きたてなのに」
その声音は柔らかかった。
けれど。
“可哀想な子を見る目”ではなかった。




