東方の刃
翌朝の訓練場には、まだ朝霧が薄く残っていた。
石畳は夜露で濡れ、冷たい空気が肺を刺す。
本来なら訓練開始前の騎士たちが整列している時間だった。
だが訓練場の中央には、既に一人の少年が立っている。
ジンだった。
シュッ……
木剣が静かに空気を裂く。
振る。
引く。
流す。
何度も同じ動作を繰り返すうちに、呼吸だけがゆっくり整っていく。
記憶を辿ること。
それはいつしか、彼にとって一種の儀式になっていた。
身体へ刻まれた“知らない技術”をなぞるたび、自分の奥底へ少しだけ近づける気がする。
「無茶をするな」
低い声。
振り返ると、ルシャが立っていた。
朝露を受けた紅髪が淡く光っている。
いつものように鋭い眼差しだったが、その奥にあった警戒心は以前より薄れていた。
昨日の特別稽古以降、彼女自身もジンの異常性を認め始めていた。
「朝から振りすぎだ。腕を壊すぞ」
「……すみません」
息を整えながら木剣を下ろす。
ルシャは数歩近づき、ジンの構えをじっと観察した。
「東方武術の動きについて聞きたいことがあります」
黒髪の少年が静かに言う。
革鎧越しにも分かる緊張。
自分自身の過去へ踏み込もうとしているのだ。
ルシャは少しだけ目を細めた。
「いいだろう」
彼女は訓練用木剣を拾い上げる。
「ただし条件付きだ」
「条件?」
「一切の嘘偽りなし」
朝の冷たい空気の中、黄色い瞳が真っ直ぐジンを射抜く。
「記憶が曖昧でも構わん。だが誤魔化すな」
ジンは小さく頷いた。
嘘はつけない。
だが同時に、真実すら掴めない。
それが今の自分だった。
「まず……剣を引いて斬る動作について」
ルシャは言葉を選ぶようにゆっくり説明を始める。
「西方剣術は“押し込む”」
木剣を真っ直ぐ突き出す。
「対してお前の動きは“流す”」
次の瞬間、木剣が弧を描いた。
最小限の動き。
だが鋭い。
「この技術は東方流派にしか見られない」
ジンは黙ったまま聞いていた。
胸の奥がざわつく。
「君の動きを分析するに……」
ルシャがジンの足元へ視線を落とす。
「明らかに特定の型を身体が覚えている」
「型……」
「しかもかなり染み付いている。即席ではない」
その時だった。
ゴォン――
鐘楼の鐘が朝霊を告げる。
朝礼開始の合図だった。
ルシャが小さく舌打ちする。
「時間か」
周囲では既に騎士たちが集まり始めていた。
二人も急いで演習場へ向かう。
その途中だった。
「私の部屋へ来てほしい」
低い声。
振り返ると、ハインリヒが回廊の陰に立っていた。
銀髪の老騎士は、隻眼だけを細めてジンを見る。
「昼過ぎだ。忘れるな」
返事を待たず、彼女は人混みの中へ消えていった。
◇
正午過ぎ。
団長私室へ呼ばれたジンは、背筋を伸ばして立っていた。
室内には静かな重厚感がある。
豪奢な机。
赤い絨毯。
壁へ飾られた星章。
だが、その中で最も目を引いたのは壁際だった。
古い刀剣類。
西方剣とは明らかに形状が違う。
細く湾曲した刃。
長い柄。
見慣れない鞘。
その多くが東方由来なのだと、一目で分かった。
「君のために選んだ」
ハインリヒが革袋を机へ置く。
中から現れたのは、一振りの短剣だった。
東方風の拵え。
黒塗りの鞘へ、銀色の月光紋様が細かく刻まれている。
息を呑むほど精巧だった。
「これは……?」
ジンが恐る恐る柄頭へ触れる。
その瞬間だった。
――冷たい。
脳裏へ、何かが走る。
記憶ではない。
もっと本能的な感覚。
拒絶。
警戒。
血の匂い。
「っ……!」
反射的に肩が震える。
ハインリヒは静かにその様子を観察していた。
「東方の遺産とされる品だ」
低い声。
「君の出自に関わる可能性がある」
ジンはゆっくり短剣を持ち上げる。
不思議と重さを感じない。
腰へ差してみる。
すると――
(しっくりくる……?)
まるで昔からそこにあったみたいに。
違和感が、ない。
その事実が何より恐ろしかった。
ハインリヒは、短剣を腰へ差したジンを静かに見つめていた。
隻眼だけが細くなる。
「やはりな」
低い呟き。
その声には確信が混じっていた。
ジンは思わず短剣から手を離す。
だが既に身体へ馴染んでしまっている。
重さ。
位置。
抜きやすさ。
まるで長年使っていた道具のようだった。
「……どういう意味ですか」
掠れた声で尋ねる。
ハインリヒはすぐには答えなかった。
代わりに壁際へ歩み寄り、古びた一本の刀を指先で撫でる。
「私は昔、東方遠征へ参加したことがある」
静かな声。
「もう三十年以上前だ」
窓の外から吹き込む風が、室内の蝋燭を揺らした。
「その時に見た。お前のような剣を扱う者たちを」
ジンの胸が僅かに強張る。
「東方の剣士は、西方とは違う。“殺すための距離”が近い」
ハインリヒが振り返る。
「引き斬り。受け流し。最小限の動き」
彼女の隻眼が真っ直ぐジンを射抜く。
「お前の身体は、それを覚えている」
沈黙。
部屋の空気が妙に重い。
ジンは無意識に短剣の柄を握り直していた。
その瞬間だった。
――抜け。
頭の奥で声がした。
知らない声。
男とも女ともつかない。
反射的に、身体が動く。
スッ――
短剣が半ばまで抜き放たれる。
月光紋様の刃が、蝋燭の光を青白く反射した。
「……!」
ジン自身が一番驚いていた。
抜くつもりなどなかった。
なのに身体が勝手に。
ハインリヒは眉一つ動かさない。
むしろ、その動きを観察していた。
「抜刀術か」
ぽつりと呟く。
「やはり東方系統だな」
ジンは慌てて短剣を鞘へ戻した。
鼓動が速い。
掌が汗ばんでいる。
「僕は……」
言葉が続かない。
何者なのか。
なぜこんなものを扱えるのか。
頭の奥で、霧の向こう側に何かが蠢いている感覚だけがある。
ハインリヒはゆっくり椅子へ腰掛けた。
老騎士の動作には無駄がない。
「焦る必要はない」
「でも……!」
思わず声が強くなる。
「身体だけが覚えていて、記憶がないなんて……気味が悪いです」
初めてだった。
ジンがここまで感情を露わにしたのは。
ハインリヒは静かに目を閉じる。
「人はな」
低い声。
「記憶だけで出来ているわけではない」
蝋燭の火が揺れる。
「鍛えた身体。積み重ねた癖。呼吸。恐怖」
隻眼がゆっくり開く。
「それらは魂より先に残る」
ジンは黙って聞いていた。
「お前の身体は、確かに東方を知っている」
ハインリヒは机の上へ肘を置く。
「ならば今は、それを受け入れろ」
短剣の重みが腰に残っていた。
不思議と嫌ではない。
むしろ落ち着く。
その感覚こそが恐ろしい。
まるで本来あるべき場所へ戻ったみたいだったからだ。
その時。
コンコン、と扉が鳴る。
「団長。失礼します」
ベリアリアだった。
扉を開けた彼女は、ジンの腰の短剣を見るなり僅かに目を見開く。
「それは……」
「東方遺物だ」
ハインリヒが簡潔に答える。
ベリアリアは数秒だけ沈黙した。
やがて静かにジンを見る。
「……似合っていますね」
柔らかな声だった。
ジンは思わず困ったように笑う。
「自分ではよく分からないです」
「でも自然ですよ」
ベリアリアは優しく微笑む。
「最初からそこにあったみたいに」
その言葉に、ジンの胸が妙にざわついた。
最初から。
まるで、自分が“剣を持つ側”の人間だったみたいに。




