聖騎士団での日常
数日後の訓練場。
朝霧が晴れ切らない石畳の上で、ジンは木剣を握っていた。
冷えた空気が肺を刺す。
周囲では聖騎士たちがいつもの基礎訓練を行っている。剣戟の音、掛け声、甲冑の擦れる音。それらが朝の訓練場へ規則正しく響いていた。
だが、ジンだけは別だった。
「東方武術の要素を探れ」
ルシャが腕を組みながら低く言う。
その声音は、以前のような警戒ではない。
観察。
分析。
見極め。
今の彼女は、ジンの中に眠る“何か”を探ろうとしていた。
「型を意識するな。身体が自然に動く方を優先しろ」
「……はい」
ジンは深く息を吸う。
木剣を握る。
すると自然と足が開いた。
右足が半歩引く。
腰が落ちる。
西方剣術の構えとは明らかに違う。
「そこだ」
ルシャの目が細まる。
「今の足運び」
ジン自身は無意識だった。
だが身体は迷いなく動いている。
前へ踏み込むというより、流れるように滑る動き。
肩の力を抜き、腰の回転だけで木剣を走らせる。
シュッ……
空気を裂く音。
西方騎士たちの重く鋭い剣筋とは違う。
もっと細く、静かな軌道。
「重心が違う」
傍で見ていたベリアリアが静かに呟く。
牛獣人の大きな角が朝日に照らされ、柔らかな影を落としていた。
「西方式は両足へ均等に体重を乗せます。でもジンくんは……」
彼女の視線が右足へ落ちる。
ジンの重心は僅かに後ろ寄りだった。
前へ押し込むのではなく、“受け流す”ための構え。
「右足が浮いている」
ルシャが低く言う。
ジンははっとしたように自分の足元を見る。
確かに、無意識のうちに踵が僅かに浮いていた。
いつでも動けるように。
まるで身体だけが、次の動きを知っているみたいに。
「これが本来のお前の型かもしれんな」
ルシャがぽつりと呟く。
風が紅髪を揺らした。
「記憶がなくても、身体に刻まれたものは消えん」
その言葉に、ジンは木剣を握る手へ視線を落とす。
掌には訓練で潰れた豆が並んでいた。
痛みはある。
けれど不思議と、この剣を振る感覚だけは嫌ではなかった。
むしろ――懐かしい。
遠い場所へ帰ろうとしているような感覚すらあった。
その日の訓練が終わる頃には、空はすっかり夜色へ変わっていた。
宿舎の屋根へ登ったジンは、膝を抱えながら月を見上げる。
聖王国アストレリアの夜空。
澄み切った星々の中で、白い月だけが静かに浮かんでいた。
冷たい風が黒髪を揺らす。
(どうして……)
なぜ東方の剣術が身体に残っているのか。
なぜ記憶だけが抜け落ちているのか。
考えようとすると、頭の奥に靄がかかる。
その時だった。
「また独りで悩んでる」
軽い声と共に、屋根へ誰かが登ってくる。
アリアだった。
訓練服姿のまま、器用に屋根を渡ってくる。猫獣人らしい軽やかな動きだった。
彼女はジンの隣へ腰を下ろすと、水筒を差し出した。
「はい。冷たいの」
「ありがとうございます」
受け取ると、中身は薬草水だった。
ほんのり甘い香りがする。
アリアは尻尾を揺らしながら月を見上げる。
「一緒に月見しようよ」
穏やかな沈黙。
遠くで夜警の鐘が鳴っていた。
やがてアリアがぽつりと口を開く。
「東方ってどんなところなの?」
ジンの肩が少しだけ揺れる。
「……わからない」
「そっか」
アリアは残念そうに耳を伏せたが、すぐまた顔を上げる。
「じゃあさ、なんで一人きりで森に居たの??」
「……それも覚えてない」
「うーん」
猫耳が困ったように動く。
「じゃあ好きな食べ物は?」
「えっ」
思わずジンが吹き出す。
「急にそこ?」
「だって暗い話ばっかりだと疲れるじゃん!」
アリアが笑う。
その笑顔を見ていると、不思議と胸の重さが少し軽くなった。
答えられない問いばかりだった。
けれど、一つだけ確かなことがある。
身体に刻まれた剣の記憶。
あれは確かに東方から来たものだ。
自分が何者なのかはまだ分からない。
それでも。
この剣の先に、自分の過去が繋がっている気がした。
聖王国アストレリアの夜空。
白い月光の下で、異邦人の少年は静かに目を閉じる。
空白を埋める旅は、まだ始まったばかりだった。




