身体が覚えている…
夕暮れの厩舎には、乾いた干し草の匂いと獣の体温が静かに満ちていた。
梁の隙間から差し込む茜色の光が、床へ長い影を落としている。
ジンは木箱へ腰掛けたまま、東方短剣の刃を布でゆっくり磨いていた。
細身の刃。
月光紋の刻まれた黒塗りの鞘。
手入れをするたび、刃が吸い付くように指へ馴染む。
それが恐ろしいほど自然だった。
布を滑らせるたび、黒髪が静かに揺れる。
その動作には一切の淀みがない。
まるで長年使い慣れた武具を扱う職人のようだった。
「何をしている?」
低い声が背後から落ちる。
振り返ると、厩舎入口にルシャが立っていた。
夕陽を背負う紅い影。
腕を組み、黄色い瞳でじっとジンを見つめている。
「……短剣の手入れを」
ジンが答えると、ルシャはゆっくり近づいた。
干し草を踏む音だけが静かに響く。
彼女はジンの手元を見下ろし、小さく息を吐いた。
「東方の短剣か……」
その声音には、以前のような剥き出しの警戒はなかった。
だが完全な安心でもない。
観察と疑念。
その狭間に立っている声だった。
「やはり君に似合うな」
ぽつりと呟く。
ジンは視線を落とした。
自分でも分かっていた。
記憶喪失の少年が、東方武具をあまりにも自然に扱いすぎている。
その事実が、周囲に違和感を与えていることを。
「体が覚えているだけかもしれません」
静かな返答。
「記憶はありません。でも……動きだけは」
嘘偽りのない言葉だった。
だからこそ、重い。
ルシャはしばらく黙っていた。
黄玉色の瞳が、短剣を握るジンの指先を見つめる。
無意識の握り。
重心。
呼吸。
どれも東方武術の特徴と一致していた。
記憶はない。
だが肉体だけが継承している。
その事実が、逆に不気味だった。
(彼は……一体何者なんだ)
ルシャの胸中に浮かぶ疑念。
だが同時に、目の前の少年が嘘をついていないことも理解していた。
ジンの言葉には、妙な真っ直ぐさがある。
誤魔化しがない。
だからこそ、余計に謎が深まる。
その時だった。
ゴォン……
鐘楼の鐘が夕空へ響き渡る。
夕餉を告げる音色。
張り詰めていた空気が、僅かに揺らぐ。
「……とりあえず食堂へ行くぞ」
ルシャが踵を返す。
紅い髪が黄昏の光を受け、炎のように揺れた。
ジンは短剣を静かに腰へ差す。
歩きながら、彼は気づいていた。
今日一日だけで、東方に関する情報が増えすぎている。
剣術。
短剣。
身体の記憶。
まるで記憶喪失という殻の外側から、少しずつ真実が滲み出しているようだった。
◇
食堂は騒がしかった。
百人を超える聖騎士たちが、それぞれ談笑しながら夕食を囲んでいる。
金属食器の音。
笑い声。
香辛料の匂い。
活気に満ちた空間だった。
だが、その中央にジンの姿はない。
彼はルシャと共に、食堂外縁の小さな席へ座っていた。
賑わいから少し離れた場所。
まるで二人だけが別の空気にいるようだった。
「今日はどうだった?」
ルシャが葡萄酒を傾けながら尋ねる。
世間話のような口調。
だが視線は鋭い。
彼女は常にジンを観察していた。
「東方の短剣を頂きました」
ジンが腰のホルスターへ触れる。
「……不思議なくらい馴染むんです」
そこから先の言葉が詰まる。
理由は明白だった。
短剣へ意識を向けるたび、頭の奥に鈍い眩暈が走る。
記憶ではない。
もっと深い場所へ触れようとしている感覚。
「体が覚えていても、意識が追いつかないのは辛いだろう」
ルシャの声は低かった。
同情。
あるいは理解。
彼女なりに寄り添おうとしているのが分かる。
ジンは俯いたまま小さく頷く。
(でも……)
胸の奥で別の感情が渦巻いていた。
(本当に僕は、記憶がないだけなんだろうか)
もし。
もし身体がここまで覚えているなら。
“自分だけが忘れたふりをしている”可能性はないのか。
そんな考えが、最近少しずつ膨らみ始めていた。
夕餉は穏やかに進む。
だが二人の間には、どこか奇妙な距離感が残り続けていた。
師弟とも違う。
保護者とも違う。
理解しかけているからこそ、踏み込めない距離。
そんな曖昧な関係だった。
◇
明け方。
宿舎の屋根へ腰掛けたジンは、朝靄に霞む聖王国アストレリアの街並みを見下ろしていた。
白い石造りの街。
遠くの尖塔。
鐘楼。
夜明け前の青白い光が、世界全体を静かに包み込んでいる。
腰の短剣へ触れる。
冷たい感触。
だが妙に落ち着く。
(……何故、こんなにもしっくりくるんだろう)
記憶はない。
確かめる術もない。
それでも身体だけが、この刃を知っている。
その事実が、胸の奥を静かに揺らしていた。
風が吹く。
黒髪が揺れた。
そしてジンは、ゆっくり目を閉じる。
(何かを探さなければいけない)
理由は分からない。
だが、その衝動だけは確かだった。
まるで遥か遠くから、自分を呼ぶ声があるみたいに。
次の瞬間。
ゴォン――
夜明けを告げる鐘が、聖都全域へ響き渡る。
新たな一日の始まり。
それと共に、黒髪の少年の運命もまた、静かに動き始めていた。




