居場所
氷点下の朝。
聖王国北辺の訓練場は、一面の雪に覆われていた。
石畳の隙間には白霜が張りつき、踏み締めるたび乾いた音が響く。吐く息は白い霧となって凍てつく空気へ溶けていった。
空は薄曇り。
弱々しい陽光が雪原を青白く照らしている。
その中央で、ジンは静かに革手袋を締め直した。
黒髪は襟元で短く束ねられている。以前よりも背丈は伸び、肩や腕にも明らかな筋肉がついていた。二年前、森で保護された頃の幼さは既に薄れ始めている。
だが彼はまだ騎士ではない。
腰に下がるのは正式騎士の証たる銀の「聖盾章」ではなく、訓練生用の青銅章だった。
未だ星影の聖騎士団に属する“見習い”。
それが今の立場だった。
「集合!」
鋭い声が雪原へ響く。
紅髪のルシャだった。
白い息を吐きながら、五十名を超える騎士たちが一斉に整列する。
獣人。
エルフ。
純人間。
種族ごとに装束も武装も異なる。
だが全員の腰には共通して銀色の護符――聖盾章が揺れていた。
ジンだけが、その列の外側にいる。
訓練生として第二小隊へ随伴参加しているに過ぎない。
それでも、彼の腰に差された東方風短剣だけは異質な存在感を放っていた。
月光紋の刻まれた黒塗りの鞘。
雪明かりを受け、その刃は静かに鈍く光っている。
「今日は総合演習を行う」
石造りの高台から、ハインリヒの低い声が響く。
銀髪の老騎士は外套を翻しながら、集まった騎士たちを見下ろしていた。
「北方情勢は依然として不安定だ。帝国内における反乱軍の活動は活発化しつつある」
空気が僅かに張り詰める。
「聖王国も、いずれ無関係ではいられん」
淡々とした口調。
だがその声音には、実戦を知る者だけが持つ重みがあった。
ジンは無意識に拳を握る。
記憶はない。
それでも、この二年間で身体へ染み込んだものは確かに存在していた。
鍛錬。
呼吸。
戦い方。
特に最近は、短剣の扱いが妙に身体へ馴染んでいる。
逆手持ち。
重心移動。
引き斬り。
どれも考えるより先に身体が動いてしまう。
(東方の記憶……なのか?)
答えはない。
ただの訓練成果なのかもしれない。
だが時折、自分でも怖くなるほど自然に刃が動く瞬間があった。
「演習開始!」
号令と同時に、雪原の空気が変わる。
模擬戦形式。
今回はルシャ率いる主力部隊と、新人混合部隊との対抗戦だった。
ジンもまた訓練生として前線へ配置されている。
冷気で鼻腔が痺れる。
だが身体は驚くほど滑らかに動いた。
「目標中央突破!」
新人部隊を率いる若いエルフの女性が叫ぶ。
翡翠色の長髪が雪風に靡いた。
だがジンは違和感を覚える。
(背中が高い……)
突撃へ意識を取られ、防御姿勢が甘い。
昨年末に入団したばかりの指揮官だった。知識はあっても、実戦経験が浅い。
その瞬間だった。
主力側が横陣形へ切り替わる。
ルシャの判断だ。
新人側の中央を潰すための動き。
「っ……!」
ジンは反射的に短剣を逆手へ持ち替えた。
考えるより先に身体が動く。
重心を低く落とす。
雪面を滑るように踏み込み、敵役騎士の視界へ飛び込んだ。
(ここで牽制を――)
短剣が閃く。
模擬刃が相手の剣筋を逸らし、一瞬だけ中央へ隙間を生み出した。
周囲がざわつく。
訓練生とは思えない体捌きだった。
まるで実戦慣れした斥候兵のような動き。
だが――
「甘い!」
低い声。
次の瞬間、ルシャの木剣が雪煙を裂いた。
ガンッ!!
凄まじい衝撃。
ジンの身体が吹き飛び、雪上へ叩きつけられる。
肺から空気が抜けた。
視界が白く染まる。
「突出するな!」
ルシャの叱責が飛ぶ。
「訓練生が単独で前へ出れば、真っ先に死ぬぞ!」
その言葉が胸へ刺さる。
戦場を知る者の声だった。
結局、演習は主力部隊の圧勝で終わった。
だが演習後、騎士たちの視線は何度もジンへ向いていた。
「あの動き見たか?」
「訓練生とは思えん」
「ルシャ隊長が気にかけるだけはある」
そんな声が小さく聞こえる。
休憩時間。
雪の積もった木箱へ腰掛けていたジンの隣へ、犬獣人の女性騎士が座り込んだ。
栗毛の短毛には白雪が積もっている。
「なかなかやるじゃないか」
尾を揺らしながら笑う。
「もう“雑用係の弟分”って感じじゃないね」
「そ、そんなこと……」
思わず視線を逸らす。
褒められることには未だ慣れない。
記憶喪失の少年。
拾われた異邦人。
それが今では、少しずつ“戦える訓練生”として見られ始めている。
演習場の端では、補給班が慌ただしく戦闘糧食を運び込んでいた。
中心を走り回っているのはミーナだった。
白い鼠獣人の少女。
以前は荷車すらまともに押せなかった彼女が、今では二人分の食料箱を抱えて駆け回っている。
(みんな変わっていく……)
ジンはぼんやりと思う。
二年という時間は、確かに流れていた。
その時、肩を軽く叩かれた。
「ジンくん」
振り向くと、アリアが立っていた。
水色の毛並み。
揺れる猫耳。
背負った長弓。
彼女もまた、以前より遥かに騎士らしくなっていた。
「北方情勢について聞いた?」
少し不安そうな声。
ジンは静かに頷く。
「帝国内で反乱軍が活発になってるんですよね」
「うん……」
アリアが視線を落とす。
聖騎士団の多くは、大陸各地へ家族や知人を持っている。
戦乱が広がれば、誰かの日常が壊れる。
それを皆理解していた。
「もし本当に戦争になったら……」
言葉が止まる。
その続きを、彼女は口にできなかった。
ジンは無意識に腰の短剣へ触れる。
冷たい感触。
だが不思議と心は落ち着いた。
「大丈夫です」
自然と声が出る。
「僕は何も覚えてません。でも――」
短剣を握る。
「守りたい人たちのためなら、戦える気がします」
飾り気のない本心だった。
東方の記憶は戻らない。
自分が何者なのかも分からない。
それでも。
この二年間で築いた居場所だけは、本物だった。
午後。
合同祈祷の時間。
礼拝堂には、各地から招集された兵士たちが集まっていた。
エルフ。
ドワーフ。
半魚人。
傭兵。
辺境騎士。
狭い空間へ押し込まれた無数の戦士たち。
祈りの声。
鉄の匂い。
押し殺された不安。
その混沌とした光景を見つめながら、ジンは静かに息を吐く。
──これが戦争前夜なのだ。
まだ誰も死んでいない。
それなのに世界は、既に少しずつ軋み始めていた。
「疲れていないか?」
休憩後の演習場。
雪の積もった柵へ寄りかかりながら、ルシャが静かに問いかける。
紅髪にはまだ薄く雪片が残っていた。吐く息は白く、黄玉色の瞳だけが真っ直ぐジンを見つめている。
その視線には、隊長としての観察だけではない感情が滲んでいた。
弟分への憂慮。
あるいは――心配。
「問題ありません」
ジンは素直に答える。
頬にはまだ演習後の熱が残っていた。
「記憶が無い分、色々覚えやすいですから」
軽口のつもりだった。
だが口から出た声は思った以上に真面目で、どこか乾いていた。
ルシャの瞳が細くなる。
その言葉の裏にあるものを考えるように。
「……まだ何も思い出せないのか」
低い声。
責める響きはない。
むしろ慎重だった。
ジンは小さく首を横へ振る。
「断片みたいなものはあります。でも……夢みたいに消えるんです」
竹林。
夕焼け。
剣を振る音。
そうした景色は時折脳裏を掠める。
だが掴もうとすると霧のように消えてしまう。
ルシャはしばらく黙っていた。
やがて大きな手が、そっとジンの頭へ置かれる。
「そうか」
指先が黒髪を撫でる。
乱暴なようでいて、不思議と優しい手つきだった。
ジンは少し驚いた顔をする。
ルシャがこうして直接触れてくることは、昔に比べれば増えたが、それでもまだ珍しい。
彼女の横顔を見上げる。
厳格な騎士の顔。
だが今だけは、どこか柔らかかった。
(戦う者としては成長した)
ルシャは内心で思う。
剣筋。
反応速度。
重心移動。
どれを取っても、二年前の少年とは別人だ。
だが――
(まだ幼い)
根本の部分は変わっていない。
記憶を失ったまま。
故郷も知らず。
家族も知らず。
そんな少年が、何故たった一人で北辺の森へ倒れていたのか。
考えれば考えるほど不自然だった。
ルシャは黒髪をわしゃわしゃと乱暴に撫でる。
誤魔化すような手つき。
「わっ、ルシャさん」
「少しは年相応の顔をしろ」
そう言って彼女は小さく鼻を鳴らした。
その声音には、ほんの僅かな安堵が混じっていた。
◇
深夜。
宿舎は静まり返っていた。
遠くで夜警の鐘が鳴っている。
ジンは寝台へ入る前に、部屋の小さな鏡を覗き込んでいた。
映るのは黒髪の少年。
以前より顔立ちは鋭くなり、目つきにも幼さが減っている。
肩も広くなった。
訓練で積み上げた筋肉が、少しずつ身体の輪郭を変え始めている。
それでも。
漆黒の髪と瞳だけは変わらない。
聖王国ではまず見られない色彩。
異邦人。
東方の血。
その特徴は、今も騎士たちや街の住民から好奇の視線を集めることが多かった。
けれど――
(今の自分には、ちゃんと居場所がある)
その実感だけは、以前より遥かに強くなっていた。
窓の外では、警戒用の松明が夜風に揺れている。
北方情勢は悪化し続けている。
誰も口にはしないが、戦争の気配は確実に近づいていた。
それでも不思議と恐怖は薄い。
代わりに胸の中にあるのは、妙な使命感だった。
記憶を持たない自分には、“過去”がない。
だからこそ、“今”だけが確かなものだった。
(明日も訓練だ)
寝台へ腰を下ろす。
そして無意識に、短剣を枕元へ置いた。
もう完全に癖になっている。
ジンは小さく苦笑する。
最初は不気味だった。
身体だけが知っている感覚も。
東方の武具が馴染むことも。
だが今は違う。
この短剣を持っていると、不思議と落ち着く。
武器というより――
どこか大切な宝物に近い感覚だった。
それが嬉しくもあり、同時に少し怖い。
まるで自分が本当に“剣を持つ側の人間”だったと認めてしまうようで。
窓枠を冬風が揺らす。
冷たいはずの風が、何故か少しだけ柔らかかった。
春は近い。
そして春と共に、大陸全土を巻き込む嵐もまた近づいている。
ジンは毛布へ潜り込み、静かに目を閉じる。
記憶ではなく。
過去でもなく。
ただ、これから訪れる未来だけを考えながら。




