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欠けた少年の帰る場所  作者: 羽衣月
冒険者
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ザイン・グリムヴァルド

「では、お名前をお願いします」


ラドヴィスはペンを構えたまま、静かに待っている。


暖炉の火が揺れる。


部屋の中は静かだった。


仮面の下で、ジンはほんの少しだけ息を止める。


名前。


その一言が、妙に重かった。


「……ジン」


反射的に、口から零れる。


だが。


次の瞬間。


グリムヴァルドが、ぴたりと茶を飲む手を止めた。


「……いや」


低い声だった。


ジンが目を向ける。


グリムヴァルドは、じっと仮面の少年を見る。


その視線は、普段の気怠さとは少し違った。


静かな観察の目。


彼女は、ずっと気付いていた。


この少年は何かから逃げている。


戦場。


軍。


追跡。


そういう“死の匂い”を纏っている事を。


グリムヴァルドは小さく鼻を鳴らした。


「ジンと名乗らせるのはまずいな」


ラドヴィスのペンが止まる。


ジンも少し肩を揺らした。


グリムヴァルドは淡々と続ける。


「お主、何かに追われているだろう」


静かな断言だった。


ジンは答えない。


だが。


その沈黙だけで充分だった。


ラドヴィスも、それ以上は聞かない。


辺境では、“聞かない”のも礼儀だ。


グリムヴァルドは少し考え込む。


「ううむ……」


それから。


ぽつりと言った。


「なら、ザインと名乗れ」


暖炉の火が揺れる。


その名前が、静かな部屋へ落ちた。


ジンは少しだけ目を瞬かせる。


「……ザイン」


知らない名前。


だが。


どこか、自分とは切り離された響きだった。


グリムヴァルドは頷く。


「そして今日から、お前はザイン・グリムヴァルドだ」


静かな声だった。


ジン――ザインの瞳が、僅かに揺れる。


グリムヴァルドは気怠そうに続ける。


「弟子なら姓も揃えた方が自然だろう」


「辺境では師弟で同じ姓を名乗る魔術師も珍しくない」


淡々とした口調。


だが。


それはつまり。


“居場所”を与える言葉でもあった。


ザインは少しだけ言葉を失う。


家族も。


所属も。


帰る場所も失った自分へ。


新しい名前をくれる。


その意味が、静かに胸へ落ちていく。


ラドヴィスは穏やかに笑い、書類へ新しい名前を書き込んだ。


『ザイン・グリムヴァルド』


インクが紙へ染み込んでいく。


その瞬間。


“ジン・暁”という少年が、静かに遠くなった気がした。


ラドヴィスは、書き終えた書類を軽く整えた。


『ザイン・グリムヴァルド』


その文字を確認し、小さく頷く。


「では、これからよろしくお願いしますね」


穏やかな声だった。


ギルドマスターとしてではなく。


どこか、一人の年長者として向けるような声音。


ザインは仮面の下で、小さく頭を下げる。


「……はい」


その時。


ラドヴィスが、ふと思い出したようにペンを置いた。


「あぁ、それから」


眼鏡を軽く押し上げる。


「私にだけは顔を見せてもらえませんかね?」


ザインの肩が、ぴくりと揺れる。


部屋が少し静かになる。


ラドヴィスは慌てた様子もなく、苦笑した。


「いえ、別に詮索したい訳ではないんです」


「ただ、一応ギルド登録ですので」


書類を軽く叩く。


「何かあった時、身元確認が出来ませんと困りますし」


穏やかな口調。


責める空気は無い。


ただ、“管理者として必要な確認”をしているだけだった。


ザインは少し黙る。


仮面の奥で、黒い瞳が揺れる。


左側の雷傷。


白髪。


その顔を見れば、驚く人間は多い。


無意識に、指先へ力が入る。


その時。


グリムヴァルドが横から口を開いた。


「まぁ、ラドヴィスならよかろう」


気怠そうな声。


「こやつ、口は固い」


ラドヴィスは苦笑する。


「一応ギルドマスターですので」


「流石に登録者の情報を言いふらしたりはしませんよ」


暖炉の火が揺れる。


しばらく沈黙。


やがて。


ザインは、小さく息を吐いた。


黙ったまま、仮面へ手を掛ける。


指先が、僅かに止まる。


それでも。


ゆっくりと仮面を外した。


かたり。


静かな音。


白い髪。


幼さの残る顔立ち。


そして。


左側へ深く走る、焼け爛れた雷傷。


その瞬間。


ラドヴィスの目が、僅かに見開かれた。


「――……っ」


一瞬だけだった。


驚愕。


そんな感情が確かに浮かんだ。


だが。


次の瞬間には、ラドヴィスはすぐ平静を取り戻す。


流石にギルドマスターというべきか。


感情を表へ出し続ける事はしなかった。


ただ。


眼鏡の奥の瞳だけが、静かにザインを見ている。


傷跡。


白髪。


そして、仮面を付けていた理由。


全てを理解したような目だった。


ラドヴィスは小さく息を吐く。


「……なるほど」


穏やかな声。


それ以上は聞かなかった。


辺境では、“聞かない”のも礼儀だ。


ラドヴィスは書類を閉じ、軽く頷く。


「確認しました」


「ご協力ありがとうございます」


事務的な口調へ戻っている。


だが。


その態度には、先程までより少しだけ柔らかさが混じっていた。


ザインは静かに仮面を付け直す。


視線が遮られる。


それだけで、少し落ち着く。


グリムヴァルドはそんな二人を見ながら、気怠そうに茶を飲んでいた。



ラドヴィスは、仮面を付け直したザインを静かに見た。


その眼差しは、もう先程みたいな驚きは無い。


代わりに。


どこか静かな理解があった。


彼は書類を閉じる。


そして、机の引き出しから一枚のプレートを取り出した。


紅い金属板。


鈍く光るその色は、血にも夕焼けにも見えた。


辺境街冒険者ギルドの登録証。


まだ低位ランク用の簡素なプレートだ。


ラドヴィスは立ち上がると、それをザインへ差し出す。


「では、改めて――」


穏やかな声。


「これからよろしくお願いしますね、ザイン君」


ザインは少しだけ目を瞬かせる。


“君”。


そう呼ばれるのは、随分久しぶりだった。


聖騎士団では。


少年兵。


戦力。


慰安係。


欠けた炉心。


そんな扱いばかりだったから。


ザインは静かにプレートを受け取る。


ひんやり冷たい。


だが。


不思議と、その重みは心地良かった。


ラドヴィスは小さく笑う。


「無理はしないように」


「辺境は生き残る事の方が大事ですから」


その言葉に。


ザインはほんの少しだけ目を伏せた。


“生き残る”。


その言葉だけは、妙に胸へ響いた。

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