仮面
暖炉の火が静かに揺れている。
外では雪。
森は暗く、風の音だけが遠く響いていた。
ガレスが帰った後。
部屋には静けさが戻っていた。
ジンは貰った飴玉を指先で転がしている。
琥珀色。
甘い匂い。
どこか、少しだけ懐かしい。
向かいでは、グリムヴァルドが静かに茶を飲んでいた。
湯気がゆらりと揺れる。
しばらく、誰も喋らない。
ぱちり、と暖炉が鳴った。
その後。
グリムヴァルドが、不意に口を開く。
「それで……」
静かな声だった。
「お主、“黒髪の悪魔”なのか?」
ジンの指先が止まる。
部屋の空気が、ほんの少しだけ重くなった。
グリムヴァルドは茶を啜ったまま、こちらを見ない。
まるで世間話でもするみたいな口調だった。
だが。
その問いは真っ直ぐだった。
ジンはすぐには答えない。
暖炉の火を見つめる。
揺れる炎。
赤い光。
そして。
脳裏へ蘇る。
雪。
血。
悲鳴。
槍。
崩れる肉。
“黒髪の悪魔”。
帝国側で、そう呼ばれていたのか。
ジンは少しだけ目を伏せる。
「……さぁ」
掠れた声。
「噂は、勝手に大きくなるので」
否定もしない。
肯定もしない。
グリムヴァルドは「ふむ」とだけ返す。
そして。
また静かに茶を飲んだ。
「まぁ、どうでもよい」
あっさりした声だった。
「お主が今ここで薬草を刻んでいる」
「儂にとっては、それだけだ」
暖炉の火が揺れる。
その言葉に。
ジンは少しだけ視線を上げた。
グリムヴァルドは相変わらず、茶を飲んでいる。
まるで。
過去など、本当に興味が無いみたいに。
グリムヴァルドは茶を机へ置いた。
湯気が静かに揺れる。
「……それで」
視線だけをジンへ向ける。
「左腕の調子はどうなのだ?」
その言葉に。
ジンは無意識に左側へ視線を落とした。
マントの下。
長手袋で覆われた左側。
しばらく沈黙する。
それから。
ジンは小さく口を開いた。
「……動きはします」
右手で、そっと左肩付近へ触れる。
「最初よりは、かなり」
グリムヴァルドは静かに聞いていた。
ジンは続ける。
「でも、まだ不安定です」
「集中を切ると消えますし……長時間使うと頭痛もする」
魔力義手。
失った腕を補う術式。
だが。
あれは本来の腕ではない。
常に魔力制御が必要だった。
ガレスの前で隠していたのも、その異質さを理解しているからだ。
グリムヴァルドは「ふむ」と頷く。
「まぁ当然だな」
「あれは元々、人間用に作られた術式ではない」
ジンの黒い瞳が少し揺れる。
「……そうなんですか」
「うむ」
グリムヴァルドは淡々と答えた。
「本来は魔力器官が強い種族向けの技術だ」
「お主みたいに無理矢理維持してる方が異常よ」
さらっと言う。
ジンは少し複雑そうな顔になる。
「……異常、ですか」
「異常だな」
即答だった。
「普通なら、とっくに魔力酔いで倒れておる」
グリムヴァルドは茶を飲みながら続ける。
「お主、妙に魔力の質が頑丈だからな」
「だから成立しておる」
暖炉の火が揺れる。
ジンは黙って左側を見る。
黒い異形の腕。
失ったものの代わり。
でも。
まだ自分の身体ではない感覚があった。
その時。
グリムヴァルドがぽつりと言った。
「まぁ、焦るな」
「最初から自分の手みたいに扱える訳がない」
静かな声。
「少しずつ馴染ませればよい」
ジンは小さく息を吐く。
それから。
ほんの少しだけ左肩の力を抜いた。
その後も。
ジンとグリムヴァルドの暮らしは続いていた。
春が過ぎ。
夏が過ぎ。
また季節が巡っていく。
森で薬草を採り。
薬を作り。
雪が積もれば薪を割る。
静かな生活だった。
戦場とは程遠い日々。
そして。
最近では、たまに辺境街へ出掛ける事も増えていた。
最初はグリムヴァルドの付き添いだった。
薬の材料。
保存食。
紙。
細々した買い出し。
だが今では、簡単な用事ならジン一人で行く事もある。
辺境街。
そこは不思議な場所だった。
獣人。
人間。
傭兵。
商人。
流れ者。
帝国出身も居れば、聖王国出身も居る。
皆どこか事情を抱えていて。
だからこそ、他人へ深く踏み込まない。
それが辺境の空気だった。
だが。
それでも。
ジンの顔を見ると、ギョッとする者は居た。
「……っ」
市場を歩いている時。
ふと視線が刺さる。
左側の雷傷。
白い髪。
片腕を隠すマント。
普通の姿ではない。
特に子供は反応が素直だった。
怖がる者も居る。
親の後ろへ隠れる子もいた。
中には露骨に目を逸らす大人も居る。
「……」
ジンは慣れたように帽子を深く被る。
昔なら。
傷を隠そうとしていた。
でも今は少し違う。
“見られる事”そのものに疲れていた。
その時。
露店の店主だった老婆が、ジンを見て小さく眉を寄せる。
一瞬だけ、傷跡へ視線が止まる。
だが。
すぐに何事も無かったみたいに言った。
「坊主、今日は干し果実安いよ」
その自然な声に。
ジンは少しだけ目を瞬かせた。
辺境街には、色んな人間が居る。
だから。
“普通じゃない姿”にも、ある程度慣れているのだろう。
ジンは小さく息を吐く。
「……少し、ください」
「毎度あり」
老婆は何事も無かったみたいに笑った。
その笑顔を見ながら。
ジンは少しだけ、肩の力を抜いていた。
辺境街へ通うようになってから。
ジンは少しずつ、“人の視線”を覚えるようになった。
傷跡を見る目。
白髪を見る目。
片腕を見る目。
怖がる者。
憐れむ者。
興味本位で見る者。
辺境では珍しくない姿だとしても。
やはり、人は最初に視線を向けてしまう。
ジン自身、それを理解していた。
だから最近は、以前より更に顔を隠す事が増えていた。
帽子を深く被る。
マントを引き寄せる。
人混みを避ける。
そんなある日。
グリムヴァルドは、帰宅したジンを見ながら小さく鼻を鳴らした。
「お主」
机の引き出しを、ごそごそと漁る。
「随分と目立ちたくないようだな」
ジンは少し肩を揺らす。
否定はしなかった。
グリムヴァルドは、やがて一つの仮面を取り出す。
古びた仮面だった。
白に近い灰色。
滑らかな曲線。
目元だけが細く開いている。
装飾は少ない。
だが。
どこか奇妙な存在感があった。
まるで。
昔話に出てくる、古の魔術師達が付けていそうな仮面。
グリムヴァルドはそれを、ぽいとジンへ投げる。
「……?」
ジンは反射的に受け取った。
思ったより軽い。
不思議な材質だった。
木でも金属でもない。
ジンが仮面を見つめていると、グリムヴァルドは茶を飲みながら言う。
「視線が気になるなら、仮面でも付ければよい」
さらりとした口調。
「お主、どうせ目立ちたくないのだろうしな」
暖炉の火が仮面を照らす。
ジンは静かにそれを見つめる。
仮面。
顔を隠す物。
昔なら。
そんな物を付けるなんて考えもしなかった。
けれど今。
白髪も。
傷も。
黒い義手も。
全部隠したいと思っている自分が居る。
ジンはゆっくり仮面を顔へ当てる。
視界が少し狭くなる。
だが。
不思議と落ち着いた。
“見られていない”。
その感覚が、少しだけ安心出来た。
グリムヴァルドはその姿を見て、小さく頷く。
「うむ」
「そっちの方が、いかにも怪しい魔術師っぽい」
「……褒めてます?」
「多分な」
暖炉の火が揺れる。
仮面越しに。
ジンは小さく息を吐いた。
その日から。
辺境街では、“仮面の少年”の姿が少しずつ見られるようになっていった。




