帝国兵の来客
――コンコン。
冬の夜だった。
外では雪が静かに降っている。
森は暗く。
風の音だけが木々を揺らしていた。
グリムヴァルドの住処では、暖炉の火が小さく燃えている。
ジンは机で薬草を刻んでいた手を止めた。
来客。
この森では珍しくない。
グリムヴァルドは気怠そうに立ち上がる。
「入れ」
扉が開いた。
冷たい風と共に、一人の男が入ってくる。
中年の男だった。
灰色混じりの短髪。
無精髭。
厚い外套。
腰には剣。
そして。
帝国軍の徽章。
ジンの黒い瞳が、僅かに揺れる。
男は慣れた様子で雪を払い、暖炉へ近付いた。
「……相変わらず寒い森だ」
低い声。
グリムヴァルドは鼻を鳴らす。
「ガレスか…冬に来る方が悪い」
男は乾いた笑いを漏らした。
どうやら顔見知りらしい。
グリムヴァルドは棚から薬瓶を取り出しながら、ふと口を開く。
「しばらく来なかったな」
「戦争のせいか?」
男は「あぁ」と短く頷いた。
それから、深く息を吐く。
「ようやく終わった」
暖炉の火を見ながら、疲れた声で続ける。
「今は事後処理だ」
「だからこうして辺境に居る」
その言葉に。
ジンの指先が、小さく止まる。
戦争が終わった。
その一言が、妙に遠く感じた。
自分が命を削っていた場所。
腕を失った場所。
逃げ出した場所。
そこが、終わった。
男はそこで、ふとジンへ視線を向ける。
白髪。
傷跡。
マントで隠された左側。
一瞬だけ観察するように見て。
「……そっちの坊主は?」
軽い調子で聞く。
グリムヴァルドは薬袋を纏めながら、興味無さそうに答えた。
「弟子みたいなものだ」
「ほう」
男は少しだけ笑う。
それ以上は聞かなかった。
軍人特有の勘はあるのだろう。
だが。
踏み込まない。
辺境では、そういう距離感が普通なのかもしれなかった。
暖炉の火が揺れる。
外では雪が降り続けている。
ジンは静かに俯いたまま、薬草を刻み続けていた。
男は暖炉の前へ腰を下ろすと、大きく息を吐いた。
雪で冷えた外套から、じわりと湯気が上がる。
グリムヴァルドは薬袋を纏めながら、無愛想に口を開いた。
「で、今回は何だ」
「いつもの腰痛薬と睡眠薬だ」
男は肩を回しながら苦笑する。
「それにしても腰が痛い……」
ぐりぐりと腰を押さえる。
「やっぱ書類仕事は腰にくるな」
グリムヴァルドが呆れたように目を細めた。
「軍人の台詞とは思えんな」
「前線よりマシだ」
男は乾いた笑いを漏らす。
「終戦後の事後処理ってのは地獄だぞ」
「戦死者名簿」
「補給再編」
「砦管理」
「復員処理」
「毎日山みたいな紙だ」
「戦ってる方が気楽だったかもしれん」
暖炉の火がぱちりと鳴る。
ジンは薬草を刻む手を止めない。
だが。
耳だけは自然と会話を拾っていた。
終戦。
復員。
事後処理。
もう戦争は終わったのだと、改めて実感する。
男は机へ肘を付きながら、疲れた顔でぼやく。
「しかも辺境勤務だ」
「中央は人が足りんから、結局こういう場所まで駆り出される」
「まぁ、辺境は辺境で嫌いじゃないがな」
そう言って、ちらりと窓の外を見る。
雪。
森。
静かな夜。
確かに、戦場よりはずっと穏やかだった。
グリムヴァルドは薬瓶を袋へ詰めながら鼻を鳴らす。
「お主は昔から文句が多い」
「歳を取ったんだよ」
男は苦笑した。
その時。
不意に男の視線がジンへ向く。
「坊主、お前は腰痛とは無縁そうだな」
軽い冗談だった。
ジンは少しだけ手を止める。
それから、小さく答えた。
「……どうでしょう」
男は「はは」と笑った。
その笑い方は、どこにでも居る疲れた中年そのものだった。
昔のジンなら。
“帝国兵”というだけで、もっと恐ろしい存在だと思っていたかもしれない。
だが今、暖炉の前に居るのは。
腰痛を愚痴る、ただの疲れた男だった。
ガレスは暖炉の火をぼんやり眺めながら、腰を鳴らすように背を反らせた。
「……それにしても酷い戦争だった」
ぽつりと漏れた声。
ジンの指先が、僅かに止まる。
グリムヴァルドは薬袋を纏めながら、興味無さそうに鼻を鳴らした。
「帝国も随分押し込まれていたらしいな」
「あぁ」
ガレスは苦い顔で頷く。
「新型魔導砲を撃たれた時は、終わったと思った」
暖炉の火がぱちりと鳴る。
その言葉に。
ジンの胸の奥が、小さく軋んだ。
新型魔導砲。
グングニル。
聖王国が生み出した兵器。
そして。
自分の左腕。
ガレスはそんな事など知らず、続ける。
「砦ごと吹き飛ばされたからな」
「帝国側もかなり死んだ」
「正直、あの兵器が続けて投入されてたら負けてた」
疲れた声だった。
戦争を思い出したくもない、そんな声音。
だが。
ガレスはそこで、不思議そうに眉を寄せた。
「……ただ、妙だったんだよな」
グリムヴァルドが「何がだ」と短く返す。
ガレスは暖炉の火を見つめたまま答えた。
「何やら聖王国の主力聖騎士団が弱体化したのか……理由は分からんが、急に妙に戦いやすくなった」
ジンの黒い瞳が、僅かに揺れる。
ガレスは気付かない。
「前までの連中は異常だった」
「特に第七砦周辺の聖騎士団」
「あそこだけ空気が違ったからな」
苦笑混じりの声。
「帝国じゃ“化け物砦”なんて呼ばれてたくらいだ」
ジンは静かに俯く。
薬草を刻む音だけが、小さく響いた。
ガレスは続ける。
「それが、ある時から急に崩れ始めた」
「連携は乱れる」
「前線の動きも鈍る」
「妙に焦ってるような戦い方になった」
「おかげで帝国側は一気に押し返せた」
ぱちり、と火の粉が散る。
「気付けば、あっという間に聖王国側の城を包囲していた」
「で、そのまま終戦ってわけだ」
静かな声だった。
勝利を語る声ではない。
ただ、疲れ果てた兵士の声。
グリムヴァルドは薬袋を机へ置きながら言う。
「……戦争とは、案外そんなもんだ」
「何か一つ崩れるだけで、全部崩壊する」
ガレスは「あぁ」と頷く。
その時。
ジンの脳裏へ、崖際の光景が蘇った。
ルシャ。
アリア。
震える剣。
泣き声。
崩れていた。
あの時にはもう。
聖騎士団は。
ガレスは暖炉の火を眺めながら、小さく鼻を鳴らした。
「化け物と言えば……」
酒でも飲みたそうな顔で、肩を回す。
「聖騎士団って、あそこ女ばかりだろ?」
グリムヴァルドは「そうらしいな」とだけ返した。
ガレスは続ける。
「そこに黒髪の少年が居たって話じゃねえか」
その瞬間。
ジンの手が、ぴたりと止まる。
薬草を刻む刃先が、小さく震えた。
ガレスは気付かないまま笑う。
「まぁ噂話だがな」
「帝国側じゃ結構有名だったぞ」
暖炉の火が揺れる。
ガレスは少し声色を変えた。
「“黒髪の悪魔”」
その名を口にした瞬間。
ジンの背筋へ、冷たいものが走る。
「夜の戦場で暴れてたらしい」
「槍持って突っ込んできてよ」
「胴体を鎧ごとぶった斬った、とか何とか」
乾いた笑い。
半分は与太話のつもりなのだろう。
戦場には、そういう誇張された怪談が溢れる。
だが。
ガレスはそこで、ふとジンを見る。
鋭い目だった。
軍人の目。
観察する目。
「……って言っても」
「流石に盛ってるか」
そう言いながらも、視線は白髪の少年から離れない。
黒髪。
少年。
白髪。
片腕。
傷跡。
何かが引っ掛かっているのかもしれない。
ジンは俯いたまま、何も言わない。
鼓動だけが、少し速くなっていた。
その時。
グリムヴァルドが、わざとらしく溜息を吐く。
「戦場の噂話など、大体尾鰭が付く」
「お主ら兵士はすぐ化け物を作りたがるな」
ガレスは「違いない」と苦笑した。
「まぁ、実際見た奴は殆ど死んでるらしいしな」
冗談めかした声。
だが。
ジンの指先だけは、静かに強張っていた。
「……まぁ、何はともあれ戦争は終わった」
ガレスは大きく息を吐いた。
暖炉の火を見ながら、疲れたように笑う。
「帝国も聖王国もボロボロだがな」
「それでも、終わっただけマシだ」
静かな声だった。
勝者の声ではない。
長い地獄から、ようやく解放された兵士の声。
ガレスは立ち上がる。
腰を鳴らしながら、ジンの方へ歩いてきた。
ジンの肩が、僅かに強張る。
軍人が近付く。
その感覚だけで、まだ身体が反応してしまう。
だが。
ガレスは気にした様子もなく、ジンの前で止まった。
そして。
ごしごし、と。
大きな手でジンの頭を乱暴に撫でる。
「……っ」
ジンの目が小さく見開かれる。
白い髪がくしゃくしゃになる。
ガレスは苦笑しながら言った。
「お前は戦争に行かなくてよかったよ」
その言葉に。
ジンの呼吸が、一瞬だけ止まる。
ガレスは気付かない。
暖炉を見ながら続ける。
「子供を戦争に使うなんてなぁ……」
疲れた声だった。
嫌悪にも似た響き。
「ありゃ大人のやる事じゃねぇ」
「戦場なんざ、ガキが立つ場所じゃない」
ジンは何も言えなかった。
ただ。
頭へ残る手の感触だけを感じていた。
聖騎士団では。
頭を撫でられる事はあった。
ベリアリア。
ルシャ。
アリア。
皆、優しかった。
でも。
それは同時に、“戦う子供”として扱われていた。
けれど。
今、ガレスが向けているのは違う。
ただ。
“戦場へ行ってほしくない子供”へ向ける言葉だった。
その感覚が。
ジンには少しだけ、分からなかった。
ガレスは薬袋を受け取ると、よっこらせ、と腰を上げた。
「さて……帰るぜ」
外ではまだ雪が降っている。
夜の森は暗い。
普通なら、こんな時間に歩きたくない。
だが。
ガレスは慣れた様子で外套を羽織った。
その時。
「あ、おう……そうだ」
何かを思い出したように懐を探る。
ごそごそと手を突っ込み。
取り出したのは、小さな包みだった。
「坊主、やるよ」
ぽい、と。
ジンへ投げる。
ジンは反射的に受け取った。
開いてみる。
中には飴玉が入っていた。
琥珀色。
少し透き通っている。
甘い匂いがした。
ジンは少し困惑した顔になる。
「……そんなに幼くは無いのですが」
その言葉に、ガレスはぶっと吹き出した。
「ははっ!」
「いいから受け取っとけよ」
豪快に笑いながら、指を振る。
「そのうちアレだろ?」
「弟子なら薬とか作るんだろうし」
グリムヴァルドが横から「勝手に決めるな」と呆れた声を出す。
ガレスは気にせず続けた。
「俺の薬を作るかもしれねぇからな」
「今のうちに機嫌取っとくんだよ」
冗談めいた口調だった。
だが。
そこに変な探りは無い。
警戒も。
疑いも。
ただ。
辺境で出会った年下の少年へ向ける、軽い気遣いだった。
ジンはしばらく飴玉を見つめる。
甘味。
聖騎士団に居た頃、ミーナが時々焼き菓子をくれた事を思い出す。
ふと胸が少しだけ痛んだ。
ガレスはそんな事も知らず、扉へ向かう。
「じゃあな、坊主」
「グリムヴァルド、また来る」
「腰痛薬は切らすなよ」
「お主が湿布を貼れば済む話だ」
「それが届かねぇ位置が痛ぇんだよ」
ガレスはぶつくさ文句を言いながら外へ出ていった。
扉が閉まる。
再び静かな夜。
暖炉の火だけが揺れる。
ジンは手の中の飴玉を見つめたまま、小さく呟いた。
「……変な人だ」




