褐色エルフ
少年は目を覚ました。
意識がゆっくり浮かび上がってくる。
暗い。
重い。
深い水の底から、無理やり引き上げられるみたいだった。
「……ぁ……」
掠れた声が漏れる。
ぼやけた視界。
知らない天井。
木造。
薄暗い部屋。
暖かな橙色の灯りが、揺れていた。
「……ここは……」
僕は死んだのか。
そう思った。
崖から落ちた。
川へ流された。
雪原を這った。
もう限界だった。
だから。
ここは死後の世界なのかもしれないと、一瞬だけ考えた。
だが。
次の瞬間。
「――ッ!!」
激痛。
胸。
左脚。
全身。
身体中へ痛みが突き刺さる。
「が……っ……!」
少年は思わず呻いた。
呼吸が乱れる。
胸傷が焼けるみたいに痛む。
ルシャの剣で裂かれた傷。
そこへ巻かれた包帯が、じわりと熱を持っていた。
左脚も酷い。
雷撃で焼けた肉が脈打つたび、神経を直接掻き回されるみたいな痛みが走る。
「……っ……は……」
脂汗が滲む。
生きている。
嫌になるくらい、痛みがそれを証明していた。
少年は荒い呼吸のまま、ぼんやりと周囲を見回す。
小さな家だった。
木造の壁。
暖炉。
吊るされた薬草。
棚には瓶や乾燥した植物が並んでいる。
鼻へ入ってくるのは、薬草の匂い。
青臭く。
少し苦い。
知らない匂いだった。
雪原でも。
聖騎士団でも嗅いだ事がない。
その時。
「目を覚ましたか」
不意に声がした。
少年の身体がびくりと震える。
視線が向く。
そこには、一人の女が立っていた。
褐色肌。
長い耳。
エルフ。
黒に近い灰色の髪を後ろで束ねている。
質素な服装。
だが。
静かな目だけが妙に印象的だった。
まるで。
長い時間、戦場を見続けてきた人間みたいな目。
彼女は木椀を片手に、少年を見下ろしていた。
「三日寝ていたぞ」
淡々とした声。
「死にかけていた」
少年は反射的に身体を起こそうとして。
「っ……!」
激痛。
胸傷が軋む。
左脚も動かない。
呼吸が止まりそうになる。
女は小さく溜息を吐いた。
「動くな」
「傷が開く」
少年は息を荒げながら、その女を見つめる。
警戒。
恐怖。
逃走。
全部が頭を巡る。
だが。
女はただ静かに言った。
「少なくとも、お前を殺す気は無い」
その言葉で。
少年の身体から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「……あなたは……?」
掠れた声だった。
喉は乾き切っている。
呼吸するだけで胸が痛む。
それでも。
少年――ジンは、目の前の女へ問い掛けた。
褐色のエルフは、木椀を机へ置く。
湯気が静かに揺れた。
それから。
壁へ軽く背を預ける。
「グリムヴァルド」
短い返答。
どこか古い響きの名前だった。
「ここの家の主さ」
落ち着いた声。
感情を大きく表へ出さない話し方だった。
ジンはぼんやりと、その名前を反芻する。
グリムヴァルド。
聞いた事が無い。
少なくとも聖王国では聞かない響きだった。
グリムヴァルドは、ジンの様子を静かに眺める。
「川下で倒れていた」
「半分死体だったぞ」
淡々とした言葉。
だが。
ジンの胸には丁寧に包帯が巻かれている。
左脚の火傷にも薬草が当てられていた。
傷口も綺麗に処置されていた。
適当に助けた人間の手当ではない。
ジンはそれに気付き、小さく目を伏せる。
「……助けたんですか」
グリムヴァルドは肩を竦めた。
「放っておけば死んでいた」
「それだけだ」
簡素な返答だった。
だが。
その“それだけ”の為に。
この女は、正体不明の片腕の少年を家へ運び。
何日も看病していたのだ。
普通なら、そんな事はしない。
ジンは少しだけ黙る。
それから。
掠れた声で、小さく言った。
「……ありがとうございます」
グリムヴァルドは少しだけ目を細めた。
「律儀だな」
「死にかけの割には」
グリムヴァルドは、しばらくジンを見つめていた。
白い髪。
痩せ細った身体。
片腕。
そして。
胸を深く裂く斬撃痕。
明らかに普通の旅人ではない。
しかも。
あの年齢で、あれほど鋭く気配に反応した。
何かある。
それは分かる。
だが。
グリムヴァルドは、それ以上何も聞かなかった。
代わりに、小さく息を吐く。
「……お主に聞きたい事は色々あるが」
静かな声。
暖炉の火が、その横顔を揺らす。
「取り敢えず寝ておけ」
「その身体では、どうせまともに動けん」
ジンは少しだけ目を伏せた。
確かにその通りだった。
胸は痛む。
左脚も熱を持っている。
身体中が重い。
少し起き上がっただけで、意識が遠のきそうだった。
グリムヴァルドは木椀を持ち上げる。
「薬湯だ」
「飲め」
独特の苦い匂いがした。
ジンは一瞬だけ警戒する。
その視線に気付いたのか、グリムヴァルドは少し呆れたように言った。
「毒なら、とっくに殺している」
「……はい」
ジンは小さく頷いた。
右手で木椀を受け取る。
熱い。
その熱だけで、少しだけ現実感が戻ってくる。
恐る恐る口を付けた。
苦い。
かなり苦い。
思わず顔が歪む。
それを見て、グリムヴァルドが鼻で笑った。
「子供みたいな顔をするな」
「薬なんぞ大体苦い」
ジンは小さく咳き込みながら薬湯を飲み込む。
身体の奥へ、じわりと熱が広がっていく。
暖かい。
それだけで、張り詰めていた何かが少し緩んだ。
グリムヴァルドはそんなジンを見下ろしながら、ぽつりと言った。
「安心しろ」
「少なくとも今夜、お主を追う者は来ん」
その言葉に。
ジンの瞳が、少しだけ揺れた。
今夜だけ。
その短い時間だけでも。
逃げなくていいのだと。
そう思った瞬間。
急激な疲労が押し寄せる。
瞼が重い。
意識が沈む。
ジンは木椀を抱えたまま、小さく息を吐いた。
暖炉の火が揺れる。
薬草の匂い。
静かな家。
そして。
久しぶりに、“敵意の無い空間”の中で。
少年は再び眠りへ落ちていった。




