逃げる少年と…
静寂だった。
吹雪すら止んでいる。
崖際。
月光に照らされた白髪の少年を、聖騎士達はただ見つめていた。
誰も動けない。
誰も。
こんな姿になるまで追い詰められているなんて、思っていなかった。
その時。
ザッ――
雪を踏む音。
聖騎士達の前列から、一人の女騎士が前へ出る。
赤い髪。
大柄な狼獣人。
ルシャだった。
ジンの呼吸が止まる。
「……ルシャ、さん」
掠れた声。
ルシャはゆっくり剣を下ろしたまま歩いてくる。
戦闘態勢じゃない。
それでも。
その姿だけで、ジンの身体が小さく強張った。
ルシャの金色の瞳が、白髪になったジンを見つめる。
傷だらけの身体。
血の臭い。
痩せ細った顔。
その全部が、彼女の胸を締め付けていた。
「……もう帰ろう」
低い声だった。
でも。
震えていた。
「なぁ、ジン」
雪原へ、その声だけが静かに響く。
ジンの右手が、短剣を握り直す。
ルシャは更に一歩前へ出た。
「何で逃げるんだ」
その言葉に。
ジンの肩が小さく揺れた。
何で。
そんなの。
決まっている。
でも。
口に出来ない。
喉が詰まる。
脳裏へ蘇る。
拘束具。
斧。
絶叫。
切断。
「……っ」
呼吸が乱れる。
ルシャはそんなジンを見ながら、苦しそうに続けた。
「皆……探してた」
「アリアも」
「ベリアリアも」
「ずっと、お前の事を……」
その瞬間。
ジンの瞳が大きく揺れる。
帰りたい。
本当は。
今すぐ。
皆の所へ戻りたかった。
暖炉のある食堂へ。
医務棟へ。
あの“家”へ。
でも。
右手が、無意識に空の左袖を掴む。
無くなった左腕。
その感触だけで、現実が全部蘇る。
ジンは一歩後退った。
崖際の雪が崩れる。
ザラ……
ルシャの顔色が変わる。
「ジン!」
だが。
ジンは止まらない。
いや。
止まれなかった。
「……怖かったんです」
掠れた声。
月光の下。
白髪の少年が、小さく震えている。
「また……切られるのが」
その言葉に、聖騎士達の空気が凍った。
ルシャの瞳が見開かれる。
ジンは短剣を握る右手を震わせながら、続ける。
「皆が怖かったわけじゃない……」
「でも……っ」
喉が震える。
涙が滲む。
「もう、あんなの嫌だったんです……」
「……もう、あんなの嫌だったんです……」
掠れた声が、雪原へ消えていく。
月光の下。
白髪になった少年は、小さく震えていた。
その姿を見て。
聖騎士達の表情が揺れる。
誰も、次の切断計画なんて知らない。
彼らにとってジンは、“突然逃げた少年”だった。
だから。
今の言葉は、あまりにも重かった。
ルシャの瞳が苦しそうに歪む。
ゆっくり。
一歩だけ前へ出た。
「……大丈夫だ」
低い声。
雪原へ静かに響く。
ジンの肩が小さく揺れる。
ルシャは剣を下ろしたまま続けた。
「もう、あんなことしないから」
その言葉に。
ジンの呼吸が止まる。
聖騎士達も静まり返っていた。
アリアが、小さく息を呑む。
ルシャの声は震えていた。
後悔。
罪悪感。
ずっと抱え込んでいた感情が滲んでいる。
「あれは……」
喉が詰まる。
それでも、言葉を続けた。
「もう二度と、お前にあんな事はしねぇ」
その瞬間。
ジンの瞳が大きく揺れる。
帰りたい。
本当に。
帰りたかった。
ルシャの声は嘘に聞こえない。
アリアも泣きそうな顔をしている。
後ろの聖騎士達も、武器を下ろし始めていた。
皆、本気で連れ戻そうとしている。
“家族”として。
でも。
ジンの右手は、空の左袖を強く握っていた。
爪が食い込むほどに。
脳裏へ蘇る。
フィリスの声。
『追加切断計画が出ています』
あの夜。
皆が泣いていた隔離室。
逃げろと言ってくれた声。
ジンの呼吸が乱れる。
違う。
ルシャは知らない。
アリアも。
皆、知らされていない。
もし戻れば。
また。
「……嘘だ」
掠れた声だった。
ルシャの表情が止まる。
ジンは小さく首を振る。
涙が零れた。
「また切るんだ……」
「また、僕を……」
その言葉に。
聖騎士達の空気が変わった。
ざわり、と。
困惑が広がる。
ルシャの瞳が揺れる。
「……何を言ってる」
ジンは震えながら後退る。
崖際の雪が崩れる。
「来ないで……!」
怯えた声。
まるで。
家族へ向ける声じゃなかった。
完全に追い詰められた子供の声だった。




