白髪
― 数日後・北方雪原 ―
吹雪だった。
空も。
大地も。
全部が白い。
風が唸り続けている。
その雪原を、ジンは一人歩いていた。
もう歩くというより、倒れないように前へ進んでいるだけだった。
外套は裂けている。
血と雪で汚れ切っていた。
頬の傷は凍り付き、指先の感覚もほとんど無い。
呼吸は浅い。
右脚も引きずっている。
暗部との戦闘。
飢え。
寒さ。
睡眠不足。
全部が、片腕の少年を削り続けていた。
それでも。
止まれなかった。
止まれば終わる。
その感覚だけで動いている。
「……はぁ……っ……」
白い息。
視界が霞む。
何度も転びそうになる。
その度、右手で雪を掴み、無理やり立ち上がる。
左肩の幻肢痛も酷かった。
存在しない腕が、まるで凍りながら焼けているみたいに痛む。
ジンはふらつきながら前を向く。
その時だった。
――カシャン。
微かな金属音。
ジンの身体が止まる。
呼吸も止まった。
風の音に混じる。
鎧。
武器。
複数。
その瞬間。
ジンの背筋へ、冷たい恐怖が走る。
「……っ」
ゆっくり振り返る。
吹雪の向こう。
白い視界の中に、幾つもの影が立っていた。
聖騎士団。
銀の鎧。
槍。
剣。
そして。
見慣れた聖王国の紋章。
ジンの顔から血の気が引く。
追いつかれた。
とうとう。
呼吸が乱れる。
逃げなきゃ。
頭では分かっている。
でも。
脚が動かない。
疲労が限界だった。
吹雪の中。
騎士達も、ジンへ気付く。
「……いたぞ!!」
声が響く。
その瞬間。
雪原の空気が一気に張り詰めた。
ジンは反射的に東方短剣を握る。
だが。
右手が酷く震えていた。
怖い。
戦いたくない。
もう誰も殺したくない。
でも。
戻りたくない。
その感情だけで、片腕の少年は雪原へ立っていた。
吹雪の向こうから、騎士達がゆっくり近付いてくる。
その中に。
見覚えのある影が混じっている気がした。
吹雪の中。
聖騎士達がゆっくり近付いてくる。
銀鎧。
槍。
白い外套。
その姿は、何度も見てきたものだった。
ずっと一緒に居た。
家族だった。
なのに今は。
それが恐ろしかった。
「……っ」
ジンが後退る。
雪へ足が沈む。
身体がふらつく。
限界だった。
空腹。
寒さ。
疲労。
もうまともに戦える状態じゃない。
それでも。
短剣だけは離さなかった。
吹雪の向こうから、声が響く。
「……ジン?」
その瞬間。
ジンの呼吸が止まった。
聞き慣れた声。
忘れる訳がない。
アリアだった。
吹雪の中から、水色の髪が揺れる。
猫耳。
雷撃弓。
その姿を見た瞬間。
ジンの胸が強く痛んだ。
「……なん、で」
掠れた声。
どうして来たのか。
いや。
分かっている。
自分を追いに来たのだ。
でも。
それでも会いたくなかった。
こんな姿を見られたくなかった。
アリアの後ろには、他の聖騎士達も居る。
皆、息を呑んでいた。
目の前の少年が、あまりにも変わってしまっていたから。
裂けた外套。
痩せ細った身体。
傷だらけの顔。
血の臭い。
そして。
獣みたいに短剣を握る姿。
「ジン……」
アリアの声が震える。
その瞳が、ゆっくり見開かれていく。
ジンの口元。
そこに残る乾いた血痕へ、気付いてしまった。
空気が凍る。
誰かが小さく息を呑んだ。
ジンは反射的に口元を隠す。
見られた。
知られた。
自分が、どんな姿で生き延びてきたのか。
胸が苦しくなる。
怖い。
嫌われる。
化け物だと思われる。
その時。
吹雪が強く吹き荒れた。
白い雪が、視界を埋める。
ジンはその隙に、一歩後退った。
「来ないで……」
掠れた声。
短剣を構える。
右手が震えている。
「お願いだから……」
泣きそうな声だった。
「……来ないで」
アリアの表情が歪む。
その後ろで、聖騎士達も動けない。
目の前に居るのは、敵じゃない。
ずっと一緒だった少年だから。
でも。
ジンはもう、追い詰められていた。
吹雪の中。
片腕の少年だけが、怯えるみたいに短剣を握り締めていた。
「来ないで……!!」
掠れた叫びと同時に。
ジンは反転した。
雪を蹴る。
逃げるように。
いや、本当に逃げていた。
アリア達から。
聖騎士団から。
“家族”だった人達から。
「ジン!!」
アリアの声が背中へ飛ぶ。
だが。
ジンは止まらない。
止まれない。
短剣を握り締め、吹雪の中を駆ける。
足元は不安定だった。
疲労でもう感覚が鈍い。
それでも前へ進む。
逃げなきゃ。
捕まれば終わる。
また切られる。
また壊される。
「っ……はぁ……!」
呼吸が苦しい。
肺が焼けるみたいに痛い。
その時だった。
グシャ――
足元の雪が崩れた。
「――ッ」
ジンの身体が止まる。
その瞬間。
背後から追ってきた聖騎士達も、息を呑んだ。
そこは崖だった。
雪に隠れて見えなかった断崖。
一歩でも踏み外せば、真下へ落ちる。
ジンは崖際へ立ったまま、ゆっくり後ろを振り返る。
逃げ場が無い。
完全に追い詰められていた。
吹雪が、一瞬だけ弱まる。
静寂。
風が止んだ。
空から落ちていた雪も、まるで息を潜めたみたいに静かになる。
そして。
雲の隙間から、月光が差し込んだ。
白い光。
その月明かりが、崖際の少年を照らす。
聖騎士達の空気が止まった。
誰も言葉を失う。
そこに居たジンは、あまりにも変わり果てていた。
血塗れの外套。
傷だらけの身体。
頬へ乾いた血。
そして――。
髪。
月光に照らされたそれは、もう以前の黒ではなかった。
白。
雪みたいに。
色を失ったみたいに。
長い逃亡と、恐怖と、飢えと、戦いの果てに。
あの綺麗だった黒髪は、白髪へ変わっていた。
アリアの瞳が震える。
「……ジン……?」
掠れた声。
信じられなかった。
目の前に居るのは、確かにジンなのに。
何かが、もう決定的に壊れてしまっている。
ジンは荒い呼吸を繰り返していた。
短剣を握る右手が震えている。
その瞳には、怯えが残っていた。
まるで。
追い詰められた獣みたいに。
月光だけが、静かに降り注いでいた。




