極限の逃走
― 北方雪原 ―
雪が降っていた。
昼も。
夜も。
終わりなく。
白い世界の中を、ジンは逃げ続けていた。
足跡は吹雪が消していく。
だが。
追跡は止まらない。
聖王国は本気だった。
北方全域へ、聖騎士団と暗部が投入されている。
もう。
“少年一人の逃亡”なんて規模じゃなくなっていた。
ジンは雪原を歩き続ける。
いや。
半分は、よろめいていた。
外套は裂けている。
頬には傷。
指先は凍え。
呼吸は荒い。
まともな睡眠も取れていない。
それでも。
止まれば終わる。
だから前へ進む。
「……はぁ……っ」
白い息。
右手には、血の付いた東方短剣。
途中。
二度、暗部と遭遇した。
どちらも夜だった。
どちらも、逃がす気は無かった。
そして。
ジンも、もう理解してしまっていた。
躊躇えば死ぬ。
戻される。
また切られる。
だから。
全部殺した。
短剣で刺した。
雪へ叩き付けた。
喉へ噛みついた。
悲鳴。
血。
肉の感触。
もう夢に出るどころじゃない。
瞼を閉じるだけで蘇る。
「……っ」
ジンの呼吸が乱れる。
右手が震えていた。
怖い。
敵がじゃない。
自分が怖かった。
最初は吐いた。
震えた。
泣いた。
でも。
三度目には、もう身体が動いてしまった。
人を殺す為に。
生き残る為に。
「なんで……」
掠れた声。
雪だけが返事をする。
誰も居ない。
もう隣には誰も居ない。
アリアも。
ルシャも。
ベリアリアも。
誰も。
ジンはふらつきながら歩き続ける。
東方短剣を握り締めたまま。
雪が、静かに肩へ積もっていく。
その姿はもう。
第七砦で笑っていた少年には見えなかった。
― 北方山岳地帯・小洞穴 ―
風が唸っていた。
吹雪は更に強くなっている。
白い雪が、視界そのものを削り取っていくみたいだった。
そんな中。
ジンは小さな洞穴へ身体を滑り込ませる。
崖際に出来た天然の裂け目。
人一人が、ようやく身を縮めて入れる程度の空間。
それでも。
外よりはずっとマシだった。
「……っ……はぁ……」
ジンは壁へ身体を預け、そのまま崩れるように座り込む。
限界だった。
脚が震える。
右腕も重い。
左肩の断面は、ずっと疼き続けていた。
幻肢痛。
もう慣れたはずなのに、疲労が酷い日は特に痛む。
ジンは小さく息を吐く。
白い息が、薄暗い洞穴の中へ広がった。
寒い。
芯まで冷えている。
外套も、もうかなり濡れていた。
頬の傷も痛む。
身体中が重い。
そして。
そのすぐ横には。
先程戦った暗部の死体が転がっていた。
女暗部。
喉元は大きく裂けている。
大量の血が、雪と石を黒く染めていた。
もう動かない。
洞穴の中には、鉄臭い血の匂いが満ちている。
ジンは視線を逸らした。
見たくなかった。
でも。
狭い洞穴では、どうしても目に入る。
「……ぅ」
喉が震える。
自分がやった。
また。
もう何人目かも分からない。
暗部達は殺す気で来た。
だから戦うしかなかった。
分かっている。
でも。
理解と感情は別だった。
ジンは右手で口元を押さえる。
まだ口の奥に血の味が残っている気がした。
気持ち悪い。
怖い。
自分が。
脳裏へ、ルシャの訓練風景が浮かぶ。
槍を教わった日。
アリアと笑った食堂。
ベリアリアに頭を撫でられた夜。
全部が遠い。
今の自分は、そこからどんどん離れている気がした。
その時。
ジンの右手が、荷袋へ伸びた。
無意識だった。
何か食べないと。
そう思ったのだ。
だが。
袋の中には、もう何も無かった。
干し肉も。
保存パンも。
全部、昨日で尽きている。
「……あ」
掠れた声。
ジンは荷袋を覗いたまま、しばらく動かなかった。
空っぽ。
本当に何も無い。
フィリス達が必死に集めてくれた食料。
それすら、もう終わった。
ジンはゆっくり袋を閉じる。
その動きだけで、妙に心が折れそうになる。
「……お腹……空いたな」
小さな呟き。
返事は無い。
当然だった。
誰も居ない。
食堂のおばちゃんも。
ミーナも。
もう居ない。
静かな洞穴。
吹雪の音と、血の匂いだけが残っている。
ジンは膝を抱え込むように小さくなる。
寒い。
空腹。
眠気。
疲労。
全部が身体を削っていく。
それでも。
まだ止まれない。
止まったら、本当に終わる気がした。
右手が、無意識に空の左袖を握る。
その時。
視界の端へ、死体が映った。
喉を噛み千切られた暗部。
ジンの呼吸が少し止まる。
「……ごめんなさい」
掠れた声だった。
謝っても、もう遅いのに。
ジンは目を閉じる。
少しだけ。
ほんの少しだけ眠ろうと思った。
だが。
東方短剣だけは、最後まで手放さなかった。
◇
洞穴の中は静かだった。
吹雪の音だけが、遠くで唸っている。
ジンは壁へ背を預けたまま、小さく息をしていた。
頭がぼんやりする。
寒さだけじゃない。
空腹だった。
まともに食べていない。
身体の芯が、じわじわ削れていくみたいだった。
「……はぁ……」
白い息。
胃が痛い。
力も入らない。
それでも。
眠れば、そのまま凍えて終わる気がした。
ジンはゆっくり顔を上げる。
視線の先。
そこには、暗部の死体が転がっている。
黒い装束。
裂けた喉。
まだ完全には凍っていない血。
その瞬間。
ジンの呼吸が止まった。
「……っ」
視線を逸らす。
だが。
頭の奥が、嫌なほど冷静だった。
食料は無い。
吹雪は止まない。
外へ出ても、獲物なんて見つからない。
このままじゃ動けなくなる。
そして。
追いつかれる。
ジンの右手が、小さく震え始める。
「……やだ」
掠れた声。
理解していた。
今、自分が何を考えたのか。
人間として越えちゃいけない線。
でも。
空腹は容赦が無かった。
胃が焼けるみたいに痛む。
身体が、生きろと叫んでいる。
ジンはゆっくり立ち上がる。
足元がふらついた。
それでも。
暗部の死体へ近づいていく。
「……ごめんなさい」
誰に向けたのか、自分でも分からない。
右手が、震えながら死体へ触れる。
まだ少し温かい。
その感触だけで、吐き気が込み上げる。
でも。
止まれない。
ジンは唇を強く噛んだ。
涙が滲む。
怖い。
嫌だ。
こんな事したくない。
でも。
生きたい。
死にたくない。
その感情だけが、今の少年を動かしていた。
洞穴の外では、吹雪が荒れ狂っている。
まるで世界そのものが、片腕の少年を人から遠ざけていくみたいだった。




