孤独な逃走
― 旧観測砦跡 ―
廃砦の中は、静まり返っていた。
崩れた石壁。
割れた窓。
天井の一部は既に落ち、そこから雪が吹き込んでいる。
かつて北方監視に使われていた砦。
今はもう、誰も寄り付かない廃墟だった。
ジンはその奥へ、小さく身体を丸めて座っていた。
寒い。
外套を羽織っていても、北方の冷気は容赦なく身体を奪っていく。
指先の感覚が薄い。
足も重い。
左肩の断面が、時折ずきりと疼く。
幻肢痛。
存在しない腕が、まだそこにあるみたいに痛み続けている。
「……っ」
ジンは右腕で自分の身体を抱く。
それでも寒かった。
吐いた息が白く広がる。
静かだった。
あまりにも静かだった。
第七砦なら、今頃は昼食の時間だ。
誰かの笑い声がして。
食器の音がして。
暖炉が燃えていて。
誰かが「ジンくん」と呼んでくれる。
でも。
ここには何も無い。
風の音だけ。
崩れた窓から吹き込む雪だけ。
そして、自分の呼吸音。
「……一人だ」
小さな声。
その言葉が、妙に胸へ刺さる。
逃げたかった。
怖かった。
また切られるのが嫌だった。
だから逃げた。
でも。
本当に一人になった瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
ジンは膝へ額を押し付ける。
右手が、無意識に空の左袖を掴む。
そこにはもう何も無い。
暖かかった左腕も。
誰かへ抱きつけた感覚も。
全部、失われてしまった。
「……寒い」
掠れた声。
返事は無い。
当たり前だった。
もう隣に誰も居ない。
アリアも。
ベリアリアも。
ルシャも。
誰も。
静かな廃砦。
片腕の少年は、小さく身体を丸めたまま動かない。
雪だけが、静かに降り続けていた。
― 旧観測砦跡・夜 ―
夜だった。
崩れた窓から、冷たい月光が差し込んでいる。
雪はまだ降っていた。
静かな夜。
風の音だけが、廃砦の隙間を抜けていく。
ジンは壁際へ身体を預けたまま、浅く眠っていた。
外套に包まり、小さく丸くなっている。
右手だけは、腰の短剣へ触れたままだった。
戦場で染み付いた癖。
完全には眠れない。
どこかで、ずっと警戒している。
その時だった。
ジャリ――
微かな音。
雪を踏む音。
ジンの瞼が、ゆっくり開く。
瞬間。
眠気が消えた。
「――っ」
呼吸を止める。
耳を澄ます。
外は静かだ。
だが。
確かに聞こえた。
人の気配。
複数。
しかも。
足音を殺している。
ジンの背筋へ寒気が走る。
右手が反射的に短剣を握った。
心臓がうるさい。
ドクン。
ドクン。
呼吸を抑える。
外套の下で身体が小さく震えていた。
追手。
もう来たのか。
早すぎる。
いや。
女王直属なら、この程度当然かもしれない。
ジンはゆっくり立ち上がる。
片腕では動作が遅い。
その僅かな不自由さが、今は致命的に感じた。
ジャリ……
また音。
今度は近い。
廃砦の外周。
包囲されている。
ジンの喉が小さく鳴る。
怖い。
見つかったら終わる。
また戻される。
また切られる。
脳裏へ、処置室が蘇る。
拘束具。
絶叫。
斧。
「っ……」
呼吸が乱れる。
駄目だ。
落ち着け。
ジンは右手で口元を押さえた。
必死に息を殺す。
月光が、崩れた石壁へ細く差し込む。
その時。
外で、小さく雪を踏む音が止まった。
完全な静寂。
ジンの瞳が揺れる。
来る。
その瞬間だった。
ギィ……
崩れかけた廃砦の入口が、ゆっくり軋んだ。
ギィ……
崩れかけた入口扉が、ゆっくり開く。
冷たい夜気が廃砦の中へ流れ込んだ。
雪が舞う。
月光の逆光の中。
三つの影が立っていた。
黒。
全身を覆う暗装束。
顔の下半分は布で隠されている。
腰には短剣。
背には細剣。
そして、息を殺した獣みたいな気配。
女王直轄暗部。
ジンの呼吸が止まる。
「……っ」
背筋へ冷たいものが走った。
知っている。
彼女達は“処理”専門だ。
逃亡兵。
裏切り者。
敵地潜入。
聖王国の汚れ仕事を担当する影。
その暗部が、自分を探しに来ている。
中央の長身の女が、小さく周囲を見回した。
低い声。
「……熱が残っている」
「近いな」
隣の女暗部が雪を確認する。
「片腕の足跡」
「間違いありません」
淡々とした声。
まるで獣を追う狩人だった。
最後の一人が、静かに廃砦内部へ視線を向ける。
「……随分遠くまで来たわね」
「片腕でここまで逃げるなんて」
ジンは崩れた石壁の奥で息を殺していた。
短剣を握る右手が汗で滑る。
怖い。
足音一つ立てられない。
三対一。
しかも相手は暗部。
まともに戦えば勝てない。
その時。
中央の女が静かに口を開く。
「対象は生存確保」
「四肢損傷は最小限に」
ジンの顔から血の気が引いた。
四肢損傷。
その言葉だけで分かる。
女王はまだ、自分を“使う”つもりなのだ。
胸が苦しくなる。
戻りたくない。
絶対に。
「抵抗した場合は?」
一人が尋ねる。
中央の女は感情の無い声で答えた。
「制圧」
「必要なら腱を切れ」
「死なせるな」
静かな声。
そこに人間への感情は無かった。
ただの“回収対象”。
ジンの呼吸が乱れる。
恐怖で身体が震える。
だが。
次の瞬間。
短剣を握る右手へ、力が入った。
戻りたくない。
また切られるくらいなら。
「……っ」
片腕の少年は、静かに腰を落とす。
東方短剣を構える。
廃砦の奥。
月光の届かない闇の中で。
その瞳だけが、小さく揺れていた。
「――そこッ!!」
鋭い声が響いた瞬間。
ジンは動いていた。
雪を蹴る。
片腕とは思えない速度。
闇の中から、一気に最前列の暗部へ飛び込む。
「ッ!?」
反応が一瞬遅れる。
その隙。
東方短剣が、喉元へ滑り込んだ。
ザシュッ――!!
温かい血が吹き出す。
女暗部の瞳が見開かれる。
声にならない息。
次の瞬間、身体が崩れ落ちた。
「な――」
残る二人の気配が変わる。
ジンは止まらない。
すぐ壁際へ飛び退く。
呼吸が荒い。
心臓が壊れそうだった。
「はぁ……っ……!」
右手の短剣から血が滴る。
初めてだった。
人を殺した。
その感触が、まだ手に残っている。
だが。
吐いている暇は無かった。
「殺傷許可変更」
中央の女暗部が低く呟く。
空気が一変する。
先程までの“回収”ではない。
明確な殺意。
次の瞬間。
ヒュンッ!!
細剣が一直線に突き込まれる。
ジンは咄嗟に身体を捻った。
頬が裂ける。
血。
そのまま床を滑るように回避。
さらに横からもう一人。
短剣。
速い。
完全に急所狙い。
ガギィン!!
ジンが東方短剣で無理やり受ける。
衝撃。
片腕では押し負ける。
身体が吹き飛ばされ、崩れた石壁へ叩き付けられた。
「がっ……!」
肺の空気が抜ける。
痛い。
でも。
立つ。
立たなきゃ終わる。
女暗部達は、一切動揺していなかった。
仲間が死んだのに。
まるで当然みたいに、次の動きへ移行している。
それが逆に怖い。
「対象、戦闘技術確認」
「聖騎士団式近接戦闘」
「危険度修正」
淡々とした声。
ジンの背筋が冷える。
評価されている。
人間としてじゃない。
敵として。
「……っ!」
次の瞬間。
二方向から同時に来る。
速い。
ジンは反射だけで動いた。
雪を蹴る。
崩れた柱を利用して跳ぶ。
片腕だからこその軽さ。
細剣が石壁を裂く。
その隙へ。
ジンが短剣を振るう。
ザシュッ!!
女暗部の腕が裂ける。
血。
だが浅い。
相手も即座に後退した。
「はぁ……っ……!」
呼吸が限界だった。
寒い。
痛い。
怖い。
それでも。
戻りたくない。
その感情だけで立っている。
月光が、片腕の少年を照らしていた。
吹き込む雪の中。
東方短剣だけを握り締め、ジンはなおも二人の暗部を睨み続けていた。




