逃走、帰る場所はもう無い
― 深夜・第七砦 ―
夜の第七砦は静まり返っていた。
昼間の喧騒が嘘みたいに、人の気配が少ない。
遠くで、巡回騎士の足音が時折響く。
それ以外は、風の音だけだった。
ジンは厚手の外套を羽織り、静かな廊下を歩いていた。
右肩には小さな荷袋。
腰には東方短剣。
左袖だけが、空のまま揺れている。
歩きながら、何度も振り返りそうになる。
でも。
振り返ったら、きっと戻れなくなる気がした。
廊下の窓から見える外は、白かった。
雪が静かに降っている。
吹雪ではない。
ただ、静かな雪。
まるで世界そのものが眠っているみたいだった。
ジンは人気の無い通路を抜け、ゆっくり訓練場へ向かう。
扉を開ける。
冷たい空気が流れ込んだ。
無人の訓練場。
夜の闇。
雪が薄く積もっている。
昼間は怒号と金属音で満ちている場所なのに、今は妙に静かだった。
ジンはゆっくり中へ入る。
雪を踏む音だけが響く。
視線が、自然と武器棚へ向いた。
そこに。
一本の短槍が立て掛けられている。
ジンの槍だった。
少し短めの北方式短槍。
片手でも扱いやすいよう、ハインリヒが調整してくれた物。
左腕を失った後も、何度も訓練で使っていた。
ジンはゆっくり近づく。
そして。
右手で持ち上げた。
ずしり、と重い。
以前より少しだけ扱えるようになっていた。
片腕でも戦えるように。
生き残れるように。
必死に練習した。
ルシャに何度も叩き込まれた動きが、まだ身体へ残っている。
ジンは静かに槍を見つめる。
持っていくべきか、少し悩んだ。
これがあれば、戦える。
雪原でもリーチが取れる。
でも。
長物は逃走には向かない。
吹雪の中では邪魔になる。
何より。
これは“第七砦の槍”だった。
ここで生きてきた証みたいな武器だった。
「……」
ジンは小さく息を吐く。
そして。
ゆっくり槍を元の場所へ戻した。
カタン――
小さな音。
それだけで、胸が少し痛くなる。
まるで。
本当にここを離れてしまうみたいで。
ジンはしばらく無言で槍を見つめていた。
やがて。
小さく頭を下げる。
誰に向けてかも分からないまま。
それから。
片腕の少年は、再び静かな夜の砦を歩き出した。
雪は、静かに降り続けていた。
― 北西防壁付近 ―
夜は静かだった。
雪だけが、しんしんと降り続いている。
第七砦北西区画。
本来なら、複数の巡回騎士が常時回っている場所。
だが今夜は違った。
吹雪による視界不良。
警戒線縮小。
予定通り、巡回数が減っている。
ジンは物陰へ身を潜めながら、じっと様子を窺っていた。
白い息が漏れそうになる。
それすら抑え込む。
心臓の音がうるさい。
ドクン。
ドクン。
右手が、小さく震えていた。
怖い。
当たり前だった。
もし見つかれば終わる。
今度こそ、本当に戻れなくなる。
遠くで、巡回騎士の灯りが動く。
一人。
そして、もう一人。
だが間隔は広い。
今なら行ける。
ジンは息を止めた。
そして。
雪を踏み締めながら、静かに走る。
音を立てないように。
左肩のバランス不足で身体が揺れる。
それでも。
止まらない。
白い防壁の影を抜ける。
視界の端で、巡回騎士の灯りが遠ざかっていく。
あと少し。
あと少しで――。
ジンは最後の防雪壁を越えた。
その瞬間。
第七砦の外気が、真正面から身体へぶつかる。
冷たい。
痛いくらいに。
ジンが小さく息を呑む。
振り返る。
そこには、第七砦があった。
雪の中に立つ巨大な要塞。
暖かな灯り。
自分が育った場所。
家。
胸が、強く痛む。
戻りたい。
今すぐ。
全部忘れて、皆の所へ戻りたかった。
でも。
ジンは右手で空の左袖を握る。
脳裏へ蘇る。
拘束具。
絶叫。
血。
そして。
“追加切断計画”。
「……っ」
小さく歯を食いしばる。
戻れない。
もう。
戻っちゃいけない。
ジンはゆっくり前を向いた。
その先には、白い雪原だけが広がっている。
街も無い。
灯りも無い。
ただ、果てしない北方。
片腕の少年は、一人だった。
誰も居ない。
誰の声もしない。
風の音だけが聞こえる。
その孤独が、急に胸へ押し寄せてくる。
「……寒い」
掠れた声。
返事は無い。
当然だった。
もう隣に、誰も居ない。
ジンは外套を握り締める。
そして。
白い雪原へ、一歩踏み出した。
雪が足を沈ませる。
それでも。
片腕の少年は、静かに歩き続ける。
一人で。
誰も居ない北方の闇の中を。
― 北方雪原・早朝 ―
空が、少しずつ白み始めていた。
夜明け前の北方は静かだった。
風の音だけが、雪原を渡っていく。
ジンは、一人歩き続けていた。
昨夜、第七砦を出てからずっと。
止まれば、怖くなりそうだった。
だから歩いた。
ひたすら。
前へ。
雪は深い。
片腕ではバランスも取りづらい。
何度も足を取られた。
その度、右手で雪を掴み、無理やり立ち上がる。
左肩の奥が疼く。
幻肢痛。
存在しない腕が、今もまだ焼けるみたいに痛んでいる。
「っ……はぁ……」
白い息。
呼吸も重い。
眠気も酷かった。
昨夜は、ほとんど何も感じる余裕が無かった。
でも。
朝が近付くにつれて、少しずつ現実感が戻ってくる。
本当に、第七砦を出たのだ。
もう。
戻れない。
ジンは歩きながら、何度も後ろを振り返りそうになる。
だが。
そこにはもう、白い雪原しか無い。
第七砦の灯りは、とっくに見えなくなっていた。
胸が少し苦しくなる。
「……皆」
掠れた声。
脳裏へ浮かぶ。
フィリス。
ミーナ。
セレナ。
リオーネ。
アリア。
ルシャ。
ベリアリア。
皆の顔。
特に最後の抱擁が、まだ身体へ残っていた。
右手が、無意識に空の左袖を握る。
その時。
ジンは、昨夜フィリスが見せてくれた地図を思い出す。
『夜明け以降は移動を控えてください』
『北方は昼間の方が索敵されやすい』
『旧観測砦跡があります』
『そこなら半日程度は身を隠せるはずです』
フィリスの静かな声。
地図へ書かれていた細い逃走経路。
吹雪で埋もれた旧補給路。
普通の騎士なら使わない道。
全部、自分の為に調べてくれていた。
ジンはゆっくり視線を上げる。
遠く。
雪丘の向こうに、崩れた石造建築が見えた。
旧観測砦跡。
もう使われていない、小さな廃砦。
ジンは小さく息を吐く。
「……陽が落ちるまで」
掠れた声。
「隠れないと」
昼間に動けば見つかる。
追跡も始まるはずだ。
ジンは雪を踏み締め、再び歩き出す。
片腕の身体は、もう限界に近い。
足の感覚も鈍い。
寒い。
眠い。
痛い。
それでも。
今はまだ止まれなかった。
雪は静かに降り続けている。
まるで。
世界そのものが、少年の逃亡を隠そうとしているみたいに。




