少年の決意と別れ
昼の鐘が、第七砦へ響いていた。
訓練を終えた騎士達が、次々と食堂へ向かっていく。
笑い声。
食器の音。
煮込みの匂い。
いつも通りの昼だった。
だからこそ。
その静けさが、逆に苦しかった。
医務棟隔離室。
部屋の中には、フィリス達四人が集まっていた。
フィリス。
ミーナ。
セレナ。
リオーネ。
皆、既に外套姿だった。
ミーナは小さな補給袋を抱えている。
セレナの医療鞄も、以前よりかなり重そうだった。
リオーネは腰へ剣を提げたまま。
フィリスの机には、広げられた地図と巡回表。
今夜。
巡回が減る夜。
吹雪によって北西側防壁の監視密度が落ちる。
唯一の脱出機会。
皆、既に覚悟を決めていた。
その空気が、部屋全体へ重く沈んでいる。
その時。
ジンが静かに口を開いた。
「……皆」
四人の視線が向く。
ジンは寝台へ腰掛けたまま、少し俯いていた。
右手が空の左袖を握っている。
やがて。
小さく息を吐いた。
「決めました」
静かな声。
だが。
その一言だけで、フィリス達の表情が少し変わる。
ジンはゆっくり顔を上げた。
その瞳には、まだ迷いが残っていた。
でも。
覚悟もあった。
「僕、一人で逃げます」
時間が止まる。
ミーナの耳がぴくりと震えた。
「……え?」
掠れた声。
セレナも目を見開く。
フィリスの羽毛が僅かに逆立つ。
だが。
ジンは続けた。
「皆は残ってください」
「僕だけ居なくなれば、皆は巻き込まれない」
「反逆罪にもならない」
静かな声だった。
けれど。
その奥には、強い決意があった。
フィリスがすぐ前へ出る。
「却下です」
即答だった。
だがジンは首を振る。
「駄目です」
「皆まで逃げたら、絶対追跡規模が大きくなる」
「でも僕一人なら、まだ誤魔化せるかもしれない」
「誤魔化せません」
リオーネだった。
低い声。
「女王直属案件だ」
「一人逃げても終わらない」
ジンの呼吸が少し止まる。
だが。
それでも首を振った。
「でも……皆を巻き込みたくない」
掠れた声。
「もう、誰かが泣くの嫌なんです」
その言葉に、ミーナがとうとう涙を零した。
「ジンくんばっかりぃ……」
嗚咽混じりの声。
「なんで全部一人で抱えるのぉ……!」
セレナも目を伏せる。
唇を強く噛み締めていた。
ジンは皆を見る。
フィリス。
ミーナ。
セレナ。
リオーネ。
皆、自分の為に反逆者になろうとしている。
それが苦しかった。
だから。
決めたのだ。
「……逃げるのは今夜です」
静かな声。
「でも」
右手が、空の左袖を強く握る。
「僕だけで行きます」
外では、昼の喧騒がまだ続いていた。
誰も知らない。
この静かな隔離室の中で。
別れが始まろうとしている事を。
◇
「駄目です」
フィリスの声は、今までで一番強かった。
記録係らしい冷静さが消えている。
「片腕で北方を単独移動なんて、自殺と変わりません」
「吹雪も酷い」
「傷もまだ完全じゃない」
だが。
ジンは静かに首を振った。
「それでもです」
その声は驚くほど穏やかだった。
穏やかだからこそ、逆に決意の強さが分かってしまう。
セレナが一歩前へ出る。
「追跡が来たらどうするんですか」
「薬も、食料も足りません」
「幻肢痛だってまだ――」
「慣れます」
即答だった。
その言葉に、セレナの顔が歪む。
慣れる。
そんな訳が無い。
ジンが毎晩どれだけ苦しんでいるか、彼女が一番知っている。
ミーナも涙を浮かべたまま首を振る。
「無理だよぉ……!」
「絶対途中で倒れちゃうもん……!」
「やだよぉ……!」
小さな身体が震えている。
だが。
ジンはやはり首を振った。
「皆が一緒の方が危ないです」
「もし捕まったら……」
掠れた声。
「今度こそ、皆終わっちゃう」
沈黙。
誰も言い返せない。
女王直属案件。
逃亡幇助。
ただでは済まない。
だからこそ、皆覚悟していた。
それでも。
ジンは、その覚悟ごと背負わせたくなかった。
リオーネが壁際で腕を組んだまま低く言う。
「……お前は」
金色の瞳が細められる。
「自分が消えれば全部丸く収まると思ってるな」
ジンの肩が僅かに揺れた。
図星だった。
リオーネは静かに続ける。
「甘い」
「女王は止まらない」
「お前が居なくなっても、追跡は来る」
「なら尚更です」
ジンが顔を上げる。
その瞳には、強い恐怖が残っていた。
「あの人達が、皆を疑い始める前に」
「僕だけ消えた方がいい」
フィリスが息を呑む。
この少年は。
最後まで、自分より周囲を優先している。
だから余計に止められない。
時間だけが過ぎていく。
昼。
夕方。
そして夜。
窓の外は、いつの間にか完全な暗闇になっていた。
吹雪は静かに強くなっている。
北西巡回縮小まで、あと僅か。
もう時間が無かった。
隔離室の中には重い沈黙が落ちている。
ミーナは泣き疲れたみたいに俯いていた。
セレナも黙ったまま。
フィリスは何度も何かを言いかけては止めている。
リオーネだけが、ずっとジンを見ていた。
やがて。
遠くで、夜警交代の鐘が鳴る。
ゴォン――……
低い音。
その瞬間。
全員の空気が変わった。
逃げる時間だった。
ジンは静かに立ち上がる。
右手で外套を掴む。
腰には東方短剣。
左袖は空のまま揺れていた。
誰も動けない。
誰も、この瞬間を迎えたくなかった。
それでも。
もう時間だけは止まってくれなかった。
遠くで、夜警交代の鐘が鳴っていた。
低い音が、静かな第七砦へ響いていく。
隔離室の中には、重い沈黙が落ちていた。
誰も動けない。
誰も、この瞬間を迎えたくなかった。
それでも。
もう時間だけは止まってくれない。
ジンは静かに立ち上がった。
厚手の外套を羽織る。
腰には東方短剣。
右肩へ小さな荷袋を掛ける。
左袖だけが、空のまま静かに揺れていた。
フィリスが何かを言いかける。
だが。
言葉にならない。
ミーナはもう顔を覆って泣いていた。
セレナも唇を噛み締めたまま俯いている。
リオーネだけが、黙ってジンを見ていた。
ジンはそんな皆を順番に見つめる。
フィリス。
ミーナ。
セレナ。
リオーネ。
皆、自分を助けようとしてくれた人達。
本当は。
一緒に居たかった。
ここに残りたかった。
でも。
それでも。
もう、自分がここに居る事そのものが危険になってしまった。
ジンは小さく頭を下げる。
「……すみません」
掠れた声。
そして。
少しだけ、困ったみたいに笑った。
「また会えたら……」
喉が震える。
右手が、空の左袖を小さく握る。
「また会える事になったら……」
その瞳が、少しだけ潤む。
それでも。
ジンはちゃんと笑おうとしていた。
「また、その時は」
「家族になってください」
時間が止まった。
ミーナが嗚咽を漏らす。
セレナも顔を伏せた。
フィリスの羽毛が震える。
リオーネだけが、静かに目を閉じた。
そして。
ジンはゆっくり皆の方へ歩いていく。
最初に、ミーナ。
小さな身体を、右腕だけでそっと抱きしめた。
「ぅ……っ……」
ミーナが声を殺して泣く。
ジンの外套をぎゅっと掴んで離さない。
次にセレナ。
羊獣人の少女は、触れられた瞬間に涙を零した。
「ごめんなさい……」
震える声。
ジンは小さく首を振る。
そして、そっと背中へ手を回した。
リオーネは最後まで動かなかった。
だが。
ジンが近づくと、小さく息を呑む。
片腕の少年は、彼女の胸元へ額を寄せるみたいに抱きついた。
リオーネの拳が震える。
だが結局。
その背中へ、静かに手を置いた。
最後にフィリス。
彼女だけは、最後まで泣かなかった。
真っ直ぐジンを見ていた。
けれど。
抱きしめられた瞬間、小さく羽毛が震える。
「……生きてください」
掠れた声だった。
ジンは何も答えない。
ただ、少しだけ抱きしめる力を強くした。
まるで――。
あの夜みたいだった。
戦場帰りの騎士達が眠れず、誰かの温もりを求め、ジンが幼い身体で皆を受け止めていた夜。
泣きながら縋りつかれ。
「行かないで」と抱き締められ。
“家族”という形を保つ為だけに、互いの孤独を埋め合っていた夜。
あの頃の抱擁は、壊れかけた心を繋ぎ止める為のものだった。
でも今は違う。
これは。
別れの抱擁だった。
静かな隔離室。
小さな魔導灯だけが揺れている。
やがて。
ジンはゆっくり身体を離した。
右目が少し赤かった。
それでも。
ちゃんと笑った。
そして。
片腕の少年は、静かに闇の中へ消えていった。
扉だけが、ゆっくり閉まる。
カタン――
その音が。
やけに大きく響いた。




