いつもの場所-切断五日前-
― 五日前 ―
朝。
第七砦には、いつも通りの鐘が鳴っていた。
重い音が、雪空へ響いていく。
医務棟の窓からそれを聞きながら、ジンは静かに目を開けた。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
アリアの言葉が、ずっと頭に残っていたからだ。
「ちゃんと、そばにいたい」
「それでも、離れたく無い」
胸の奥が少し痛む。
ジンはゆっくり起き上がった。
左肩の奥が疼く。
幻肢痛。
存在しない腕が、今日もまだ痛んでいた。
それでも。
以前よりは動ける。
右手で外套を羽織る。
短剣を腰へ差す。
そして。
ジンは久しぶりに、医務棟の外へ出た。
冷たい空気。
白い息。
雪は静かに降っている。
第七砦は、今日も動いていた。
訓練場では、若い騎士達が槍を振っている。
「そこ足止まってるぞー!」
教官の怒鳴り声。
それに混ざる笑い声。
誰かが転んで、周囲が笑っていた。
いつもの光景。
ジンは少し立ち止まる。
胸がぎゅっと締め付けられた。
「……あ、ジン先輩!」
若い女性騎士の一人が気付いて駆け寄ってくる。
まだ新兵に近い年齢。
以前、ジンが槍の基礎を教えた子だった。
「怪我、大丈夫なんですか?」
心配そうな顔。
ジンは慌てて笑顔を作る。
「はい、だいぶ良くなりました」
「よかったぁ……」
その表情が、あまりにも普通で。
ジンは少し苦しくなる。
彼女は何も知らない。
一週間後、自分がまた切断される予定だなんて。
「また戻ってきてくださいね!」
明るい声。
ジンは一瞬だけ言葉を失う。
そして。
小さく笑った。
「……はい」
嘘だった。
胸の奥が痛む。
訓練場を離れる。
次は食堂前。
昼前の準備が始まっていた。
厨房から暖かい匂いが流れてくる。
煮込み。
焼き立てのパン。
聞き慣れた食器の音。
食堂のおばちゃんが、ジンを見るなり目を丸くした。
「あらまぁ!」
「ちゃんと外出れるようになったのかい!」
大きな声。
以前と変わらない。
その瞬間、ジンは少し泣きそうになった。
「……はい」
「無理すんじゃないよ!」
「また痩せたじゃないか!」
そう言いながら、焼きたての小さなパンを押し付けてくる。
以前と同じみたいに。
ジンは右手で受け取った。
温かい。
その熱が、胸へ刺さる。
砦の中は、いつも通りだった。
皆、普通に生きている。
笑っている。
働いている。
ここには、ちゃんと日常がある。
だからこそ。
逃げるという選択が、どんどん苦しくなっていく。
雪が静かに降っていた。
ジンは白い息を吐きながら、第七砦の中をゆっくり歩いていく。
まるで。
この景色を忘れないようにするみたいに。
― 五日前・夜 ―
夜の第七砦は静かだった。
昼間の喧騒が嘘みたいに、人の声が少ない。
時折、巡回騎士の足音が石廊下へ響くくらいだった。
ジンは外套を羽織ったまま、静かな廊下を歩いていた。
右手が、無意識に空の左袖を握る。
逃げる。
その言葉が、まだ胸の中で重く沈んでいた。
だからなのかもしれない。
今日は、やけに皆の顔を見たくなっていた。
曲がり角を抜けた時。
奥の補給室から、小さな物音が聞こえる。
カタ、カタ……
ジンがそっと覗く。
そこに居たのはミーナだった。
小柄な鼠獣人の少女。
大きな木箱を前に、一生懸命帳簿を書いている。
耳がぴこぴこ動いていた。
だが。
時折、手が止まる。
ぼんやりする。
そして慌ててまた書き始める。
疲れているのが、遠目でも分かった。
その時。
ミーナがふと顔を上げる。
「あっ」
目が合った。
一瞬だけ驚いた後、すぐ笑顔を作る。
「ジンくん!」
ぱたぱた駆け寄ってくる。
「起きてたのぉ?」
「はい、ちょっとだけ」
ジンが小さく笑う。
ミーナは安心したみたいに耳を揺らした。
だが。
その目の下には薄く隈が出来ている。
最近ずっと、逃亡準備を進めているからだ。
食料。
防寒具。
保存水。
全部、少しずつ誤魔化しながら集めている。
本当なら、こんな事をしている余裕なんて無い。
それでも。
ミーナは笑おうとしていた。
「今日はね、干し肉いっぱい確保できたんだよぉ」
「……そうなんですか」
「えへへ」
少し誇らしげだった。
ジンの胸が、また痛む。
その干し肉は、本当は逃亡用なのだ。
自分の為に。
ミーナは何も言わない。
でも。
全部、自分を生かす為に動いている。
それが苦しかった。
少し話した後、ジンは補給室を離れた。
そのまま医務区画へ向かう。
奥から、小さな灯りが漏れていた。
処置室。
中ではセレナが、一人で器具を整理していた。
白い羊毛の耳が揺れる。
机には大量の薬瓶。
包帯。
止血剤。
そして。
強い鎮静薬。
セレナは無言で作業していた。
だが。
時折、その手が止まる。
その度に、小さく息を吐いていた。
「……セレナさん」
ジンが声を掛ける。
セレナがびくりと肩を揺らした。
「ジン!?」
珍しく、かなり驚いた顔だった。
「まだ起きてたんですか」
「セレナさんこそ」
ジンが机を見る。
薬品がかなり増えていた。
セレナは一瞬だけ視線を逸らす。
「……備蓄確認です」
嘘だった。
逃亡用医療物資の選別。
でも。
お互い、それ以上は言わない。
沈黙。
その後、セレナが小さく呟いた。
「最近、ちゃんと眠れてますか」
「……まあまあです」
「嘘ですね」
即答だった。
ジンが少し困ったように笑う。
セレナはそんなジンを見ながら、静かに目を伏せた。
「無理しないでください」
その声は、以前よりずっと優しかった。
ジンは返事が出来なかった。
最後に。
ジンは記録室の前で足を止める。
扉の隙間から灯りが漏れていた。
中ではフィリスが、一人で大量の書類を広げている。
地図。
巡回表。
補給記録。
全部が机へ並べられていた。
その姿は、まるで戦争の作戦参謀みたいだった。
フィリスは羽根ペンを動かしながら、何かを書き続けている。
普段の穏やかな空気は無い。
張り詰めていた。
ジンは、扉越しにその姿を見つめる。
自分の為に。
皆が壊れ始めている。
その事実が、胸へ重く沈んでいく。
廊下の窓の外では、静かに雪が降っていた。
第七砦の夜は、今日も静かだった。




