少年の葛藤-切断六日前-
朝になっても、ジンはほとんど眠れていなかった。
薄暗い隔離室。
小さな魔導灯だけが静かに揺れている。
昨夜、フィリス達が帰った後も、ジンはずっと寝台へ座ったままだった。
膝の上には戦術書。
だが、一頁も進んでいない。
視線だけが、ぼんやり文字の上を彷徨っていた。
「……逃げる」
掠れた声。
小さな呟きは、静かな部屋へ溶けていく。
そんな事、考えた事も無かった。
いや。
考えないようにしていた。
第七砦は怖い場所になってしまった。
処置室。
拘束具。
斧。
血。
絶叫。
思い出すだけで呼吸が苦しくなる。
左肩の奥がずきりと疼いた。
存在しない腕が、まだそこにあるみたいに痛む。
ジンは右手で空の左袖を握る。
それでも。
ここは家だった。
食堂の匂い。
朝の訓練。
夜警の鐘。
皆の声。
ルシャ。
アリア。
ベリアリア。
フィリス。
ミーナ。
セレナ。
リオーネ。
全部、ここにある。
だから。
簡単に捨てられる訳がなかった。
「……逃げるって」
小さく息を吐く。
「そんな……」
視線が揺れる。
窓の外。
白い雪景色。
北方の空。
この外へ出た事なんて、ほとんど無い。
聖騎士団へ拾われてから、ずっとここで生きてきた。
戦場も。
訓練も。
生活も。
全部、第七砦だった。
「行く場所なんて……無いのに」
掠れた声。
胸が痛む。
もし逃げたら。
もう戻れないかもしれない。
皆とも会えなくなる。
それが、何より怖かった。
その時。
コン、コン。
朝の見回りのノック音が響く。
「ジンくーん、起きてる?」
若い騎士の声だった。
いつもの声。
いつもの朝。
その瞬間。
ジンの胸がぎゅっと締め付けられる。
まだ、日常は残っている。
なのに。
あと一週間後には、自分の身体はまた切られる。
その現実だけが、異物みたいに部屋の中へ存在していた。
ジンは返事を返せなかった。
ただ静かに俯き、右手で空の左袖を握り締める。
まるで。
無くなった左腕を、必死に繋ぎ止めるみたいに。
― 夜 ―
夜の医務棟は静かだった。
遠くで誰かの足音が微かに響く。
それ以外は、ほとんど音が無い。
隔離室の中では、小さな魔導灯だけが淡く揺れていた。
ジンは寝台へ腰掛けている。
右手には短剣用の革紐。
片腕でも扱えるよう、鞘位置を調整していた。
以前より、少しだけ慣れてきた。
慣れたくはなかったけれど。
その時。
コン、コン。
控えめなノック。
「……はい」
扉がゆっくり開く。
水色の髪。
猫耳。
アリアだった。
「こんばんは」
以前より、少し自然な声だった。
切断直後みたいな壊れた空気は、もう無い。
まだ痛々しさは残っている。
それでも。
少しずつ、以前みたいに話せるようになっていた。
「……こんばんは」
ジンも小さく返す。
アリアは部屋へ入ると、慣れた様子で椅子へ座った。
手には小さな包み。
「食堂のおばちゃんから」
「今日甘いやつ出たからって」
そう言って机へ置く。
焼き菓子だった。
ほんのり甘い香りが広がる。
ジンが少し目を丸くする。
「まだ残ってたんですね」
「私が確保したの」
少し得意げな顔。
その瞬間だけ、以前のアリアに戻ったみたいだった。
ジンが小さく笑う。
アリアも、それを見て少し安心したように笑った。
静かな時間が流れる。
他愛も無い会話。
食堂の話。
若い騎士が訓練で転んだ話。
最近雪が酷い話。
そんな、本当に小さな日常。
でも。
ジンにとっては、それが苦しかった。
あまりにも、いつも通りだったから。
ここを離れるなんて、考えたくなくなるくらいに。
アリアがふと、ジンの左袖を見る。
一瞬だけ表情が曇る。
だが、すぐ笑顔を作った。
「最近、短剣の動きまた良くなったよね」
「リオーネさんも褒めてたよ」
ジンは少し困ったように笑う。
「まだ全然ですよ」
「左側、やっぱり隙だらけですし」
そう言いながら、無意識に空の左袖へ触れる。
アリアの耳が少し伏せられた。
沈黙。
ほんの少しだけ空気が止まる。
その時だった。
ふいに。
ジンの脳裏へ、以前の言葉が蘇る。
「ちゃんと、そばにいたい」
「それでも、離れたく無い」
あの日。
涙を堪えながら、アリアが言った言葉。
胸の奥が、少し痛む。
ジンは視線を落とした。
右手が、小さく左袖を握る。
アリアはそんなジンを見て、不思議そうに首を傾げる。
「ジンくん?」
「……あ」
ジンは慌てて顔を上げた。
「いえ、何でもないです」
笑おうとする。
でも少しだけ、その笑顔はぎこちなかった。
アリアはしばらく黙っていた。
やがて。
小さな声で言う。
「……最近さ」
「前より、ちゃんと話せるようになってきたよね」
その言葉に、ジンの胸がまた痛んだ。
戻り始めている。
少しずつ。
壊れた関係が。
だからこそ。
余計に、逃げたくなくなる。
隔離室の灯りが静かに揺れる。
夜は、とても静かだった。




