深夜
深夜。
第七砦は静まり返っていた。
遠くで、夜警の鐘が一度だけ鳴る。
低く。
重い音。
その余韻だけが、雪に包まれた砦の中へ静かに広がっていく。
医務棟隔離室。
小さな魔導灯の灯りだけが、部屋をぼんやり照らしていた。
ジンは寝台へ腰掛けている。
膝の上には読みかけの戦術書。
右手で頁を押さえながら、時折ぼんやり文字を眺めていた。
左袖は空のまま、静かに垂れている。
部屋は妙に静かだった。
静かすぎて、自分の呼吸音ばかりが耳につく。
時折、左肩の奥が疼いた。
存在しないはずの腕が、まだそこにあるみたいに痛む。
幻肢痛。
最近は少し慣れてきた。
慣れたくなんてなかったけれど。
ジンは小さく息を吐く。
その時。
コン、コン。
控えめなノック音が響いた。
こんな時間に。
ジンが少し顔を上げる。
「……はい」
扉がゆっくり開く。
最初に入ってきたのはフィリスだった。
厚手の黒外套姿。
肩には薄く雪が積もっている。
続いてミーナ。
そしてセレナ。
最後にリオーネ。
四人。
その顔触れを見た瞬間、ジンが少し目を丸くする。
「え……?」
掠れた声。
深夜に、全員揃って来るなんて珍しかった。
ミーナは何かを抱えている。
セレナはいつもの医療鞄。
フィリスは妙に真剣な顔をしていた。
そしてリオーネだけは、明らかに空気が硬い。
「どうしたんですか……?」
ジンが小さく笑う。
だが。
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙に、ジンの表情が少しだけ曇る。
フィリス達は互いに視線を交わしている。
誰が言うのか。
どう伝えるのか。
決め切れていない。
やがて。
最初に動いたのはミーナだった。
小柄な身体を震わせながら、寝台の近くへ来る。
「ジンくん……」
声が少し掠れている。
ジンは不思議そうに首を傾げた。
「……ミーナさん?」
ミーナは答えない。
代わりに、ぎゅっと服を握る。
泣くのを堪えているみたいだった。
その空気で、ジンも何かを察し始める。
笑顔が少し消えた。
「……何か、あったんですか」
静かな声。
セレナが目を伏せる。
リオーネの拳が強く握られる。
フィリスだけが、真っ直ぐジンを見ていた。
その瞳には、迷いと覚悟が混ざっている。
長い沈黙。
やがて。
フィリスがゆっくり口を開いた。
「ジン」
いつもより低い声だった。
「落ち着いて聞いてください」
その瞬間。
ジンの背筋へ、嫌な寒気が走る。
本能だった。
あの日と似ている。
“何か悪い事が起きる前の空気”。
無意識に、右手が毛布を握り締める。
フィリスは一度だけ目を閉じた。
そして。
静かに告げる。
「……追加切断計画が出ています」
時間が止まった。
ジンの瞳が、ゆっくり見開かれていく。
「……え」
掠れた声。
理解が追いついていない。
フィリスは続ける。
「一週間後です」
「次は右腕か、脚か……詳細はまだ分かりません」
その瞬間。
ジンの顔から血の気が引いた。
呼吸が止まる。
右手が、小さく震え始める。
「……うそ」
小さな声。
誰も否定しない。
その沈黙だけで十分だった。
ジンの呼吸が急速に浅くなる。
脳裏へ蘇る。
拘束具。
悲鳴。
血。
骨が砕ける音。
ルシャ。
アリア。
ベリアリア。
皆の泣き顔。
「ぁ……」
喉が震える。
視線が揺れる。
逃げ場を探すみたいに。
だが。
どこにも無い。
「……また?」
壊れそうな声だった。
「僕……また……?」
その姿を見て、ミーナがとうとう泣き出した。
「ごめぇん……!」
嗚咽。
セレナも唇を噛み締めている。
リオーネは俯いたまま動かない。
フィリスだけが、一歩前へ出た。
そして。
静かに言った。
「だから、逃げます」
ジンの呼吸が止まる。
「……え?」
フィリスの瞳は、もう迷っていなかった。
「ここを出ます」
「第七砦から」
「聖王国から」
静まり返った深夜の隔離室。
その言葉だけが、やけにはっきり響いていた。




