牛獣人の夜
― 切断から一ヶ月半後・深夜 ―
第七砦・医務棟隔離室
夜は静かだった。
窓の外では吹雪が唸っている。
風が強い。
最近の第七砦は異様な寒さに包まれていた。
まるで冬そのものが、何かへ怒っているみたいに。
隔離室の中には、淡い治癒灯だけが揺れている。
その灯りの下で、ベリアリアはジンの包帯交換を行っていた。
白い包帯。
薬液。
癒術布。
どれも見慣れたもの。
本来なら、何百回と繰り返してきた処置だった。
なのに。
「……っ」
手が震える。
包帯を巻く指先が、微かに止まった。
そこにあるのは、左肩の断面。
もう塞がり始めている。
だが。
その傷跡を見る度、脳裏へ蘇る。
血。
悲鳴。
骨が砕ける音。
「……ごめんなさい」
ぽつり、と。
また零れてしまう。
ジンは寝台へ座ったまま、小さく首を振った。
「ベリアリアさんのせいじゃ――」
「違うの……!」
ベリアリアの声が崩れる。
その瞬間、ジンの言葉が止まった。
ベリアリアは俯いたまま、震えていた。
大きな身体が、小さく縮こまって見える。
「私が……薬を作ったの」
掠れた声。
「眠れるようにって……」
涙が、ぽたぽた床へ落ちる。
「ちゃんと眠ってほしくて……苦しくないようにって……」
ジンは静かに聞いていた。
ベリアリアの声は止まらない。
「なのに……」
嗚咽。
「起きた時、あんな……」
喉が潰れたみたいな声。
「怖い思い、させて……!」
包帯を持つ手が、完全に止まる。
癒術師として。
守る側として。
絶対にやってはいけなかった。
それを、自分はやった。
「私、あなたを守れなかった……!」
とうとうベリアリアは顔を覆った。
肩が震える。
今までずっと堪えていたものが、崩れ落ちていく。
隔離室へ、吹雪の音だけが響いていた。
ジンは何も言わない。
いや。
言えなかった。
数秒。
長い沈黙。
やがて。
右手が、ゆっくり動く。
少し迷うように。
躊躇うように。
それから。
そっと、ベリアリアの服の裾を掴んだ。
ベリアリアの呼吸が止まる。
ジンは俯いたまま、小さく呟いた。
「……でも」
掠れた声。
「いつも、助けてくれました」
ベリアリアの瞳が揺れる。
ジンは続ける。
「熱出た時も」
「怪我した時も」
「眠れない時も……」
右手が、少しだけ強く裾を握る。
「ずっと、居てくれたから」
その言葉は。
許しじゃない。
きっと、まだ怖い。
まだ傷付いている。
でも。
それでも。
この人の傍は、嫌じゃなかった。
ジンはゆっくり身体を寄せる。
ほんの少しだけ。
右肩を、ベリアリアへ預けた。
その瞬間。
ベリアリアの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。
「……っ」
声にならない。
震える手が、ゆっくり持ち上がる。
怖かった。
自分の手が。
またこの子を傷付ける気がして。
でも。
数秒迷った後。
その手は、そっとジンの黒髪へ触れた。
優しく。
壊れ物みたいに。
指先が震えている。
昔みたいに上手く撫でられない。
それでも。
ジンは逃げなかった。
ベリアリアは泣きながら、小さく頭を撫で続ける。
「……ごめんなさい」
何度も。
何度も。
掠れた声で。
するとジンが、右肩を預けたまま小さく呟いた。
「……眠れない時」
ベリアリアの手が止まる。
ジンは視線を落としたまま続ける。
「また、居てくれますか」
その一言で。
ベリアリアは完全に泣き崩れた。
あの日以来。
初めてだった。
ジンが、自分を頼ってくれたのは。
◇
吹雪の音は、まだ窓の外で唸っていた。
だが隔離室の中だけは、不思議なほど静かだった。
ベリアリアは寝台の横へ座ったまま、動けずにいる。
膝の上では、ジンの右手がまだ服の裾を掴んでいた。
離さないように。
居なくならないように。
その小さな力だけで、胸が締め付けられる。
「……」
ベリアリアはゆっくり視線を落とした。
ジンは、いつの間にか眠っていた。
ほんの少しだけ身体を預けたまま。
穏やかな寝息。
長い睫毛。
雪灯りに照らされた黒髪。
切断以降、こんな風に深く眠れている姿は殆ど見ていない。
いつもは違った。
夜中にうなされる。
幻肢痛で呻く。
小さな物音だけで目を覚ます。
呼吸を乱して左肩を押さえる。
そんな夜ばかりだった。
でも今は。
「……すぅ……」
小さな寝息だけが聞こえる。
ベリアリアの瞳が揺れる。
ジンの顔は、少し幼く見えた。
まだ十五の少年だった。
本当なら。
戦争なんて知らずに生きていても、おかしくない年齢。
なのに。
この子はずっと、“誰かの為”に笑ってきた。
聖騎士団の為に。
皆の為に。
壊れるまで。
ベリアリアの指先が、そっとジンの髪を撫でる。
今度は少しだけ自然だった。
「……眠れてる」
掠れた声。
それだけで涙が出そうになる。
ジンの寝顔は、少し安心したみたいだった。
完全ではない。
時折、指先がぴくりと動く。
幻肢痛の名残だろう。
それでも。
以前よりずっと穏やかだった。
ベリアリアは小さく息を吐く。
そして、ジンを起こさないように静かに毛布を掛け直した。
その時。
ジンの右手が、無意識に少しだけ動く。
服の裾を、更にぎゅっと掴んだ。
まるで。
離れないで、と言うみたいに。
ベリアリアの喉が詰まる。
「……大丈夫」
震える声。
「ちゃんと、ここにいるから」
優しく。
本当に優しく。
ベリアリアはもう一度、黒髪を撫でた。
吹雪は強くなっていく。
窓の外では白い雪が、音も無く第七砦を覆い続けていた。
けれどその夜だけは。
隔離室の中に、ほんの少しだけ昔みたいな温もりが戻っていた。




