猫獣人の願い
第七砦・医務棟前廊下
夜風が冷たかった。
医務棟の窓から漏れる淡い灯りが、静かな廊下を細く照らしている。
その壁際へ、アリアは一人座り込んでいた。
膝を抱えたまま。
水色の猫耳は力無く垂れている。
「……」
手の中には、小さな包み。
焼き菓子だった。
昔、ジンが好きだと言っていた蜂蜜入りのもの。
ミーナに教わりながら、自分で焼いた。
何度も失敗して。
焦がして。
それでも。
“前みたいに戻りたい”一心で。
アリアは包みを見つめる。
脳裏へ浮かぶのは、まだ左腕があった頃のジンだった。
訓練終わり。
汗だくで笑いながら。
「アリアさん、それ甘すぎません?」
なんて困った顔をして。
それでも全部食べてくれた。
夜中。
怖い夢を見て眠れなくなった騎士達の部屋を回って。
帰り際、自分の部屋へ寄ってくれて。
二人でくだらない話をして。
気づいたら朝になっていた事もあった。
あの頃は。
ずっと続くと思っていた。
「……っ」
アリアが唇を噛む。
だが現実は違う。
今のジンは、自分を見ると僅かに身体を強張らせる。
以前より自然には話してくれる。
笑おうともしてくれる。
でも。
その奥にある恐怖だけは、消えていない。
当然だった。
自分は、あの日。
泣きながら、ジンを押さえつけていたのだから。
「……どうしたらいいの」
小さな声。
答える者はいない。
アリアはゆっくり立ち上がった。
そして、隔離室の扉を見つめる。
入るか。
戻るか。
数秒迷って。
やがて、小さくノックした。
コン、コン。
中から、少し間を置いて声が返る。
「……はい」
ジンだった。
アリアの胸が少し締まる。
以前より静かな声。
感情を押し込めたみたいな声。
「……入るね」
扉を開ける。
隔離室の中は静かだった。
ジンは寝台の端へ座っている。
右手だけで本を持っていた。
以前、フィリスから借りた戦術書。
左袖は空のまま揺れている。
「こんばんは」
ジンが小さく頭を下げる。
敬語。
やっぱり少し距離がある。
アリアは無理やり笑おうとした。
「こ、これ……焼いてみたんだ」
包みを差し出す。
「前、好きって言ってたから……」
ジンは少し驚いた顔をした。
それから。
右手だけで包みを受け取ろうとして、少し手間取る。
以前なら左手を添えていた動作。
その瞬間だけ、空気が止まった。
だが。
ジンは何事も無かったみたいに持ち直す。
「……ありがとうございます」
優しい声。
でもやっぱり、“気を遣っている声”だった。
アリアの胸が痛む。
以前なら。
もっと自然だった。
敬語なんて少なかった。
笑いながら肩を叩いて。
猫耳を引っ張られて。
距離なんて無かった。
なのに今は。
まるで壊れ物同士みたいに、互いに慎重になっている。
「……食べてみて?」
アリアが小さく言う。
ジンは頷き、包みを開いた。
蜂蜜の甘い香り。
一口食べる。
数秒。
そして。
「……美味しいです」
小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間。
アリアの胸がぎゅっと締め付けられる。
違う。
そうじゃない。
今の笑顔は、“安心させる為の笑顔”だ。
本当に笑っている訳じゃない。
昔みたいに、自然に笑えていない。
それが分かってしまう。
「……ジンくん」
アリアの声が震える。
ジンが顔を上げる。
その目には、まだ少し恐怖が残っていた。
消えていない。
ちゃんと。
あの日が残っている。
アリアの瞳へ涙が滲む。
「私……」
喉が詰まる。
謝りたい。
抱き締めたい。
前みたいに戻りたい。
でも。
何を言っても、あの夜は消えない。
すると。
ジンが少し困ったように笑った。
「……泣かないでください」
優しい声。
昔と同じ。
相手を気遣う声。
それが逆に、アリアを壊しそうだった。
「僕、大丈夫ですから」
その言葉を聞いた瞬間。
アリアは、とうとう顔を覆った。
違う。
大丈夫じゃない。
左腕を失って。
怖い思いをして。
今もまだ怯えているのに。
それでも、この子は。
まだ自分達を安心させようとしている。
「……ごめん」
涙声。
「ごめんね、ジンくん……」
隔離室へ、静かな嗚咽だけが響いていた。
一方で。
ジンは何も言わない。
ただ静かに、泣き崩れるアリアを見ていた。
その瞳の奥には。
まだ消えない恐怖と。
それでも、この場所へ居たいという、小さな願いだけが残っていた。
アリアの嗚咽は、しばらく止まらなかった。
肩が小さく震えている。
猫耳も力無く垂れ下がっていた。
ジンは静かにその姿を見ている。
以前なら。
きっと何も考えず、頭を撫でていた。
「大丈夫ですよ」って笑いながら。
でも今は違う。
触れていいのか分からない。
また怖がらせるんじゃないか。
そんな迷いが、互いの間へ残っていた。
アリアは涙を拭いながら、必死に呼吸を整える。
そして、小さく呟く。
「……怖かったよね」
ジンの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「痛かったよね……」
返事は無い。
でも否定もしない。
それだけで十分だった。
アリアは唇を噛む。
「私……」
震える声。
「ちゃんと、そばにいたい」
「もう前みたいには戻れないかもしれないけど……」
涙がまた溢れる。
「それでも、離れたくない……」
隔離室は静かだった。
窓の外では雪が降っている。
白い静寂。
ジンは俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
右手が、空になった左袖をそっと握る。
癖みたいな動作。
やがて。
小さく息を吐いた。
そして。
ゆっくり、右手を持ち上げる。
アリアの身体がぴくりと揺れた。
ジンの手が、止まる。
まだ少し迷っているみたいだった。
でも。
数秒後。
その手は、そっとアリアの頭へ触れた。
柔らかい水色の髪。
猫耳が小さく震える。
アリアの瞳が大きく開かれた。
ジンの手も少し震えていた。
以前みたいに自然じゃない。
ぎこちない。
触れ方を忘れてしまったみたいに、不器用だった。
それでも。
ちゃんと、自分から触れた。
「……アリアさん」
掠れた声。
「そんな顔しないでください」
優しい声だった。
昔と変わらない。
誰かを安心させようとする声。
アリアの喉が詰まる。
ジンは小さく笑おうとした。
以前みたいな無邪気な笑顔じゃない。
少し疲れたような、静かな笑み。
でも。
それでも確かに、“ジン自身”の笑顔だった。
「僕、ここに居たいので」
ぽつり、と。
「皆と……一緒に」
その言葉を聞いた瞬間。
アリアの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
ジンの右手が、ぎこちなく猫耳を撫でる。
ゆっくり。
壊れ物を扱うみたいに。
アリアはもう、声を押さえきれなかった。
泣きながら。
その小さな右手へ、自分の両手を重ねる。
もう左手は無い。
でも。
まだ温もりだけは残っていた。




