切断五日後
― 切断から五日後 ―
第七砦・医務棟隔離室
朝靄のような白い光が、隔離室の床をぼんやり照らしていた。
雪明かりだった。
窓の外では、昨夜から降り続く雪が静かに砦を覆っている。
部屋の中は妙に静かだった。
以前なら、夜明け頃にはジンの呻き声や、幻肢痛による浅い呼吸が響いていた。
だが今は違う。
静かすぎるほど静かだった。
寝台の上。
ジンは壁へ背を預けたまま座っている。
虚ろな目で、自分の右手を見つめていた。
開く。
閉じる。
ゆっくり。
何度も。
まるで、“残っている方”を確認するみたいに。
「……」
その右手が、ふと空中で止まる。
無意識だった。
何かを掴もうとしたのだ。
左手で。
しかし当然、そこには何も無い。
数秒遅れて、ジンの肩がぴくりと震えた。
右手が静かに下がる。
表情は変わらない。
だがその沈黙だけで、どれほど現実を突き付けられているか分かってしまう。
寝台脇では、セレナが処置記録を書いていた。
羽ペンの音だけが、小さく部屋へ響く。
その時だった。
ぐぅ……、と小さな音が鳴る。
ジンの腹だった。
セレナが顔を上げる。
ジンは少し気まずそうに目を逸らした。
その仕草だけ、一瞬だけ昔の少年へ戻った気がした。
「……朝食、持ってきます」
セレナが静かに立ち上がる。
だが。
彼女が左側へ回り込もうとした瞬間。
びくっ、と。
ジンの身体が強張った。
呼吸が止まる。
右手が反射的に左肩を庇った。
「……っ」
セレナはすぐ立ち止まる。
「ごめん」
小さな声。
もう皆、理解していた。
左側から近づかれるだけで、ジンは無意識に怯える。
身体が先に反応してしまうのだ。
セレナは遠回りして右側から食器盆を置いた。
湯気の立つ粥。
柔らかく煮た野菜。
そして小さな薬包。
「……ありがとう、ございます」
掠れた声。
敬語だけは消えない。
それが逆に痛々しかった。
ジンはゆっくり匙を持つ。
だが。
途中で動きが止まる。
視線が空中へ向いている。
左手で器を支えようとしたのだ。
存在しない左手で。
「……あ」
小さな声。
その瞬間、ジンの顔から血の気が引いた。
右肩が震える。
幻肢痛だ。
存在しない指先が、また焼けるように軋み始める。
「っ……」
匙が落ちる。
カラン、と小さな金属音。
それだけでジンの呼吸が乱れた。
金属音。
斧。
血。
記憶が一瞬で繋がる。
「だいじょうぶ」
セレナがすぐ声をかける。
「斧じゃない」
「もう誰も切らないから」
だが。
“もう”という言葉そのものが、逆に現実を思い出させてしまった。
ジンの瞳が揺れる。
右手が左肩を押さえる。
「……っ」
浅い呼吸。
必死に落ち着こうとしているのが分かった。
三日前みたいに叫ばない。
暴れない。
でも。
恐怖は消えていない。
ただ、身体の奥へ沈み始めているだけだった。
その時。
外から訓練鐘が鳴る。
カァン――
カァン――
雪空へ響く、朝の訓練開始音。
ジンの指先が止まった。
窓の外を見る。
遠くから騎士達の掛け声が聞こえる。
槍の打ち合う音。
足音。
以前なら。
あの中へ、自分も走って行っていた。
誰より早く。
誰より真面目に。
「……」
長い沈黙。
やがてジンが、小さく呟く。
「僕……」
掠れた声。
「もう、前みたいには……なれないんですか」
セレナは答えられなかった。
その問いが、“左腕を失った事”ではなく。
“皆を信じていた頃の自分へ戻れない”という意味に聞こえてしまったから。
セレナは、すぐには答えられなかった。
羽ペンを握る手が止まる。
隔離室の中へ、訓練場の掛け声だけが遠く響いていた。
「……前みたいに、って」
ようやく出た声は、少し掠れていた。
ジンは窓の外を見たまま、小さく続ける。
「皆と、ご飯食べたり」
「訓練したり」
「部屋、呼ばれたり」
最後の言葉だけ、少し途切れた。
セレナの胸が痛む。
“慰安係”として使われていた事を、ジン自身も理解し始めているのだ。
「……僕」
右手が、シーツをぎゅっと握る。
「役に立てなくなったら……」
そこで言葉が止まった。
それ以上、口に出来なかった。
だが分かってしまう。
ジンは今、自分の価値を“役に立つかどうか”で測っている。
聖騎士団の中で育ち。
誰かを支えることで存在意義を感じてきた少年らしい思考だった。
セレナはゆっくり立ち上がる。
刺激しないよう、静かに。
そして寝台の横へ腰を下ろした。
右側から。
左側へ立たないように。
「ジン」
優しい声だった。
「あなたは、物じゃない」
その瞬間。
ジンの瞳が微かに揺れる。
だが。
次の瞬間には、また俯いてしまった。
「……でも」
掠れた声。
「皆、泣いてました」
「ごめんって……いっぱい」
「だから……」
呼吸が少し乱れる。
「本当は、嫌だったんですよね」
セレナの息が止まる。
「僕のこと」
違う。
そう言いたかった。
だが、言葉が喉で止まる。
嫌いだった訳じゃない。
むしろ逆だった。
皆、ジンに救われていた。
依存していた。
だからこそ。
あの夜、自分達で壊してしまった。
「……嫌いじゃない」
セレナがようやく絞り出す。
「誰も」
「誰も、あなたを嫌ってなんかない」
ジンは静かに聞いていた。
だが。
その目にはまだ恐怖が残っている。
信じたい。
でも怖い。
そんな感情が、壊れかけた硝子みたいに揺れていた。
その時だった。
コン、と小さなノック。
ジンの肩がびくりと跳ねる。
呼吸が止まる。
数秒後。
扉が少しだけ開いた。
ルシャだった。
紅い狼耳。
大柄な身体。
だが今は、酷く小さく見えた。
「……入っていいか」
低い声。
以前みたいな豪快さは無い。
ジンの顔から血の気が引く。
身体が硬直する。
右手が、反射的に左肩を押さえた。
ルシャの瞳が揺れる。
その反応だけで、自分がどれほど怖がられているか分かってしまう。
「……悪い」
掠れた声。
ルシャは部屋へ入らず、扉の前で立ち止まった。
「すぐ帰る」
沈黙。
雪風の音だけが微かに聞こえる。
ルシャはしばらく黙っていた。
やがて。
震える声で、小さく言った。
「……斧、捨てた」
ジンの瞳が微かに揺れる。
「もう二度と使わない」
「見たくもない」
ルシャは視線を伏せた。
「あの日から、槍も握れてない」
低い声。
「お前の悲鳴が、ずっと頭から離れない」
隔離室が静まり返る。
ジンは何も言わない。
ルシャも、それ以上何も言えなかった。
謝罪なんて、軽すぎる。
許されるとも思っていない。
だから最後に。
本当に小さな声でだけ呟いた。
「……怖いよな」
その一言だけ残して。
ルシャは静かに扉を閉めた。
閉まる直前。
ジンの右手が、ほんの少しだけ震えているのが見えた。
扉が閉まる。
静かな音だった。
だがその瞬間、隔離室の空気が少しだけ重くなった気がした。
「……」
ジンはしばらく、閉じられた扉を見つめていた。
右手はまだ左肩を押さえたまま。
呼吸は浅い。
だが三日前のように取り乱しはしなかった。
ただ。
瞳の奥に残る恐怖だけが、静かに揺れていた。
セレナは何も言わない。
今は下手な言葉を挟まない方が良いと分かっていた。
やがて。
ジンが小さく呟く。
「……ルシャさん」
掠れた声。
「痩せましたね」
セレナの耳がぴくりと動く。
思わぬ言葉だった。
ジンは俯いたまま続ける。
「前より、目の下……黒かった」
ぽつり。
それだけ言って黙る。
まるで。
自分より相手を気にする癖だけが、まだ残っているみたいだった。
セレナは胸の奥が痛くなる。
この子は、本当に優しすぎた。
だから壊れた。
皆に必要とされるまま、自分を削り続けて。
最後には、その皆の手で腕を切り落とされた。
「……ジン」
セレナが静かに名前を呼ぶ。
だがその瞬間。
ジンの身体がぴくりと痙攣した。
「っ……!」
右手が強くシーツを握る。
幻肢痛。
存在しない左腕が、また軋み始めている。
指先がある。
握っている。
そんな錯覚だけが、消えずに残り続けている。
「はぁ……っ」
呼吸が乱れる。
額へ汗が滲む。
セレナはすぐ癒術陣へ手を伸ばした。
淡い光。
だが、痛みは完全には消えない。
神経そのものが悲鳴を上げているからだ。
「……ごめんなさい」
ジンが小さく呟く。
セレナの手が止まる。
「また……迷惑かけて」
その言葉に、セレナの胸が強く締め付けられた。
迷惑。
この子は、自分の痛みすら“周囲への負担”として捉えている。
セレナはゆっくり首を振った。
「迷惑じゃない」
静かな声。
「あなたは、痛がっていい」
ジンは答えない。
ただ。
少しだけ目を伏せた。
その時。
廊下の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。
若い騎士達だ。
ほんの一瞬。
訓練帰りに交わした、短い雑談。
だが。
その声を聞いた瞬間。
ジンの瞳が揺れる。
以前なら。
あの輪の中に、自分もいた。
皆に囲まれて。
笑って。
名前を呼ばれて。
「……」
ジンは静かに窓の外を見る。
雪が降っている。
白い。
静かな雪。
やがて。
ぽつり、と。
「……戻りたいな」
小さな声だった。
「前みたいに」
その言葉に。
セレナは何も返せなかった。
戻れないと、分かってしまったから。
ジンも。
聖騎士団も。
あの夜を越えてしまった時点で、もう。




